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【長編小説】 初夏の追想 27

 守弥がパリへ渡った翌年の、五月の初旬のことだった。犬塚夫人はいつものように休暇を開始するために、あの別荘を訪れていた。裕人ひろとも付いて行く予定だったが、仕事の都合で二、三日遅れることになった。
 別荘地には誰もいなかった。その近隣では、向かいの建物に私の祖父が絵を描いているくらいだった。
 犬塚夫人は別荘に着くと、裕人が到着するまで独りで過ごした。そのあいだ、連絡もなかったけれど、普段と違ったことは何もないと思っていた、と裕人は言った。
「ところが……」
 裕人は言いながら気色ばんだ。
「僕が着いたときは、ちょうどお昼前ぐらいだった。別荘の前には、母さんが乗って来た車が停めてあった。僕はそのすぐ後ろに自分の車を着けた」
 春のまっただ中、初夏に移ろいかけた、とても気持ちのいい日だった。消え残った朝露が、玄関ポーチへ続く小道の脇に生えている草の上にきらきらと光っていた。
「家の中から、何か言い争う声がしたんだ」
 その声は段々と大きくなっていった。最初は男と女の声が交互に聞こえていたが、段々女のほうの声が大きくなっていって、しまいにはヒステリックな叫び声となった。
「それは、母さんの声だった」
 裕人は目を見開いた。
 屋内で、大きな音がした。重いガラスを思い切り叩き割ったような音だった。ガチャン、ガチャン、続けて何度も同じ音がした。
 裕人は急いで玄関ポーチへ向かった。玄関のすぐ横の部屋、大きな音がした応接室の中が、窓越しに見えた。
 部屋の中には母と、私の祖父が見えたという。二人とも激しく言い争っていて、犬塚夫人が興奮した様子で激しく暴れ、部屋の中を滅茶苦茶にしているところだった。床に投げ散らかされたクッション、なぎ倒されたスタンドライト。カーテンの一部が破れていた。
 ふと、強烈なアルコールの匂いが鼻をついた。犬塚夫人が割った、おびただしい数のウイスキーやブランデー、コニャックの瓶の欠片かけらが床に散乱していて、キャビネットの中は大方空になっていた。
 裕人は目撃した。
 度を失った顔をして必死に止めようとする私の祖父。裕人には背を向けた格好で、叩き割ったコニャックの瓶を逆さにし、残った液体を母が頭から被るのを。それから母はロー・テーブルに手を伸ばし、灰皿の横にあったライターを取り上げた。
 やめろ、何してる!
 そう祖父が叫んだような気がした。でもそれは一瞬の出来事だった。外から見ている裕人にも、室内にいた祖父にも、犬塚夫人自身にさえも、誰にも止めることはできなかったに違いない。
 激しい憤怒に操られた右手は、その勢いのままにライターを点火した。
 一瞬のうちに凄まじい炎が犬塚夫人の体を包んだ。魂を引き絞るような、ものすごい叫び声が上がり、彼女は取り乱して身をよじった。祖父が慌てて脱いだ上着をはたきつけて火を消そうとすると、しかしそれを拒絶するようにその脇を擦り抜け、火だるまになったまま部屋の外へ走り出て行った。
「僕は地面に足が張り付いたみたいになって、まったく身動きがとれなかった」
 裕人は青ざめて言った。ようやく気を取り直した彼は慌てて戸外の散水ホースのところに走り、蛇口を回そうとした。が、蛇口には鍵がついていなかった。いつも使用するたびに、台所の抽斗ひきだしから鍵を持って来ていたことを裕人は思い出した。
 屋敷内でも、祖父が消化器を探していた。中央廊下の右端です! と裕人は叫んだ。
 
 ――庭のほうにまで出て、断末魔の悲鳴を上げ続ける犬塚夫人に消化器の薬剤と散水ホースからの水をかけて鎮火することができたのは、彼女の叫び声が止んで、地面に横たわって動かなくなったときだった。裕人と私の祖父の火を消そうとする努力から逃れようとするかのように、炎の塊となったまま庭じゅうを散々走り回った挙句、庭の片隅にある天使の彫像のところまで辿り着いて、すがりつくように息絶えていた。それはあまりにも無残な、苦しみに満ちた死に方だった。
 彼女の美しかった姿は、漆黒の炭とすす、、に変わり果て、水圧に負けてぼろりと折れた。
 
 警察が来て、その後三日に渡って事情を聞かれた。裕人は気丈にも自分が見たことを全部事細かに話した。祖父の聴取は裕人より長時間に及んだが、裕人の証言と祖父の説明したことで警察は納得し、犬塚夫人の自殺ということで処理された。祖父が犬塚夫人を殺害したという容疑をかけられることはなかった。
「楠さんのお祖父様が、警察に何を話したのかは兄もわからないそうです」
 その後、二人で話し合う機会を持つことはなかった、と裕人は言った。警察の前では気を張って平静を保っていたものの、母親の最期のあまりの凄まじさに裕人は打ちのめされていたし、祖父は祖父で、放心したような状態が長く続いていたという。
「あのあとお祖父様はしばらくふもとの病院に入院されていたんじゃないかと思います」
 守弥は言った。
「母の葬儀が終わってから、離れを訪ねたんですが、閉め切ってあって、どんなに呼び鈴を鳴らしても、会うことはできませんでした」
 私は背後から頭を殴られたような気がしていた。犬塚夫人の最期のあまりの痛ましさに呆然として、言葉も出なかった。
 ――そして私は、祖父が亡くなった日時を思い出していた。それは、同じ場所、天使の彫像の足もとで、犬塚夫人が亡くなった翌週のことだったのだ。
 ……悲愴な顔をして、守弥は言った。
「母は自分の体を、燃やし尽くして、、、、、、、しまいたかったんだろうと思います。渇望にむしばまれ、もてあました体を」
 私は目を覆った。痛みをこらえているような震える声で守弥は言った。
「僕は彼女の分身みたいなものだから、僕にはわかる。いずれにしても、そうせざるを得なかったんです。……生涯かけて欲したものを、ついに手に入れられないと悟ったとき、彼女は苦しくて、自分の身も心も消滅させてしまいたかったのでしょう」

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