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【長編小説】 異端児ヴィンス 7

 冬が近づいていた。
 私は買い物に行くために、モン・ロワイヤル通りをひとりで歩いていた。日曜日の昼下がりは、日増しに下がりゆく気温をものともせぬ人々で賑わっていた。夏の間だけ開いているアイスクリーム屋はとっくに看板を出して、「来年の夏までさようなら!」と賑やかに閉店をうたっていた。本屋で雑誌の立ち読みをする若い女性、重厚な石造りのコミュニティ・センターに出入りする人々、その二階の図書館からゾロゾロと出てくる学生たち……。長髪で、鼻にピアスをし、尖ったビスのいっぱい付いた黒いジャケットを着た若いパンクロッカーが、いつものようにサン・ドニ通りと交差する角で通行人に向かって紙コップを差し延べていた。
 デジャルダンのATMでお金を引き出して外に出た私は、通りの向こう側に見慣れた人物を発見した。
 しかしそれは、とても見慣れない光景だった。
 私の視線の先には、サン・ドニ通りを挟んで車の列が行き来する向こうに、ヴィンスの姿があった。普段昼間は決して彼の姿を目にすることはなかったので、それだけでも私には大発見だったのだが、その上今日の彼は髪を整え、かっちりとしたジャケットなんかを着込んで、身なりに気をつかっているのだった。
 しかも彼は独りではなかった。
 ひと目見てケベック人女性ケベコワーズとわかる大柄な女性が、彼のかたわらに立っていた。二人の距離感から見て、彼らが他人同士ではないということは明らかだった。女性は波打つとび色の長い髪の持ち主で、薔薇色の頬をした血色のいいがっちりしたタイプの健康的な美人だった。そしてたいそう親しげな様子でヴィンスに話しかけている。
 二人はやがて、反対側の方向に歩き出し、半地下にあるティー・ルームへの階段を下りていった。
 彼らと私の間には、午後の車の流れが立ちはだかっていた。信号はなかなか青に変わらず、二人の姿はティー・ルームの中へ消えていった。そこで私はヴィンス! と叫んで駆け寄って行きたい衝動を、じりじりとした気持ちで抑えなければならなかった。けれどそれでも、私は自然と自分の口尻が上がるのを止められないでいた。ヴィンスにガールフレンドがいたなんて! 確かにあれは、ある程度親密インティメイトな間柄の二人だった。ヴィンスったら、酒場ではあんなに変人を装っているくせに、普段はこんなまともそうな顔で、おしゃれさえして、美人とデートしたりしているのだ。そう考えると、彼の秘密を暴いたような気がすると同時に、彼が私たちと同様な一般市民の生活を営んでいることに、言いしれぬ喜びを感じた。けれどその気持ちが過ぎ去ったあと、何だかあの、酒場の魔王といった風格を持つ私の中での〝偉大なる酔っ払い〟がその魔法を解かれ、ただの平凡な男に戻ってしまっているのを見るような気がして、しらけた気持ちにもなった。
 けれど私は、いずれにしても、普段我々はあの役者にすっかりやられているのだ、と気持ちを奮い起こして、今度デュー・デュ・シエルの仲間に話してやらなければ、と思ったのだった。
 
 
 人が何か行動を起こすときには、必ず理由がある。例えそれが巧妙に隠されていたとしても、丹念に紐解いていけば、必ず明確な理由があったことに行き当たる。
 その理由を知る勇気を持ち、受け入れることができたなら、初めてその人を理解することができるのだ。
 
 
 ――大学を卒業したてのころ、私は従弟と電車の中で話していた。場所は東京、秋から冬へ移ろう時節で、確か私たちは山手線か西部新宿線のどちらかで彼の住む千川のアパートへ移動していたのだったと思う。
 そのとき私はまだカナダへ発つという発想さえ得ておらず、それでもすでに漠然とした異国・異文化への憧れといったものを無意識の内に持っていたようで、時折手にする書籍の中にその慰めを見出していた。その時も、ちょうど私は椎名誠著の『インドでわしも考えた』を携行していた。私は卒業旅行で行ったグアムの話をし、生まれて初めて日本を出た興奮についての印象を彼に伝えようとしていた。そしてひょんなことから自分の持っている本を話題にしたとき、「いつかインドのような国にも行ってみたいと思ってるんだ」と私は言った。「タッちゃんも、若い内に一回行ってみるといいよ。きっと素晴らしいから」と言うと、彼はちょっと居心地の悪そうな表情をして、「いや、僕は、あんまり……」と呟いた。
 私はこのとき初めて、若者の中にも世界に目を向けたり興味を持ったりすることのない人もいるのだということを知った。そして、自分が強く勧めるような口調で言ってしまったがために、気まずそうな顔をして固まってしまっている彼に、悪いことをしてしまったような気持ちになった。まるで出しゃばって自分の意見を押しつけてしまったようで、罪悪感にさえかられた。
 日本から出ることなく生きていくのが彼の選択で、カナダへ発つのが私の選択であるということを完全に受け入れることができるようになったのは、意外にも随分あとのことだった。カナダでの生活が自分に浸透してしまうまで、私はやはり自分と異なる他者の存在と主張とを完全には認めることができなかったのだった。
 
 こんな風に、ときどき日本は私の中にオーバラップした。三十年間私をつちかい育てた国。私という存在の基盤をつくり、徐々に考え方を凝り固めひねくれさせていった国……。
 小さな思い出は無数にある。それは何気ない日常の雑事に追われているときに突然浮かび上がって、そしてわずかな情緒を残しながらあまりにも素早く過ぎ去ってしまうので、筆を執るかコンピューターを立ち上げるころにはすでに失われてしまっているほどだ。
 それらをすべて網羅し書き起こすことができるならば、きっと素晴らしいに相違ないのに。そうすれば私は私という存在の輪郭をよりくっきりと描き出すことに成功し、運がよければ誰かにそれを理解してもらうことができるかもしれないのだから。
 
 金魚の夢は、実にしばしば見た。不思議なことに、夢に出てくる金魚はいつも二匹の組み合わせだった。大きくてごく普通の赤金、もうひと周り小さくて色白で頬のところがほんのり赤いらんちゅう。それはいつもとても可愛かった。多くの場合、赤い金魚は私で、らんちゅうはその時どきの相棒だった。それは姉であったり、友達であったり、無意識の中の自分の姿であったりした。
 金魚は何を象徴していたのだろう?
 茫漠ぼうばくとした私の精神活動の中にぽつねんと浮かぶ、自分自身の象徴? かつて誰よりも私を理解し、私とほぼ重なるほど似通った思考回路を持っていた姉の化身? それとも、こうありたいと願う自分自身の憧れの姿……?
 それはいかようにも分析できる。この、分析という作業を私は好きだ。特に夢のようなつかみどころのない対象であればあるほど、無意識という謎に満ちた奥深い世界により深く沈降することができ、それを幾通りものパターンで解釈する自由が無限に与えられているから。この無限の空間に、なかば自己陶酔的な想像を遊ばせるのが私は好きだった。

 現実は嫌い? 実際問題に、私は到底立ち向かえない?

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