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映画『ファーザー』感想 人は樹、想い出は葉


 誰もが迎える可能性を先行体験するVR作品、映画『ファーザー』感想です。

 ロンドンで独り暮らしをしている81歳のアンソニー(アンソニー・ホプキンス)は、認知症の兆候が見え始めていた。娘のアン(オリヴィア・コールマン)はヘルパーを雇うが、苛立つアンソニーに何人も追い出されてしまい途方に暮れる。アンソニーもまた、アンが再婚のために自分を置いてパリへ移住すると聞かされ、ショックを受けていた。だが、あくる日アンソニーが目覚めると、見知らぬ男がリビングに座っており、自分は10年以上共に暮らすアンの夫だと言う。しかし、帰ってきたアンからは、数年前に離婚して独り身であると言われる。新しいヘルパーのローラ(イモージェン・プーツ)は、もう1人の娘のルーシーによく似ていて気に入ったが、もうルーシーとは何年も会っていないのは何故なのか? 目前で繰り広げられる混乱した記憶と現実に、アンソニーは次第に疲弊していく…という物語。

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 劇作家フロリアン・ゼレールによる舞台演劇の戯曲を原作として、フロリアン・ゼレール本人が監督・脚本を務めた作品。フロリアン・ゼレールにとっては初監督作品になりますが、各映画賞を総ナメして絶賛を浴び、ついにはアカデミー脚色賞、主演のアンソニー・ホプキンスは、『羊たちの沈黙』でのレクター博士役に続いて2度目の主演男優賞を受賞するという快挙を成し遂げています。

 本作の最大の特徴は、認知症患者本人の視点を中心に据えて物語が進むという点だと思います。認知症や老人介護の作品は多数存在しているので、それほど斬新なテーマではないはずなんですけど、それらは介護をする側の人間の視点で描かれることが多かった印象があります。介護する人間の苦悩や悲しさを描くものが主軸で、介護される側の気持ちはそれらに付随するような描かれ方の印象でした。
 けれども本作では、ほぼアンソニー(あえて役者名を同じにしているのも効果的)の視点にすることで、いかに認知症という状態が本人にとって恐怖なのかという事が、観客に追体験出来る仕掛けになっているんですよね。もちろん、実際の認知症患者がこのような風景を見ているかはわからないと思うんですけど、このアンソニーの視点から物語を観ていると、認知症患者が怒ったり、嘘をつかれている、騙そうとしていると騒いだりするのが、納得出来るような気がします。

 認知症を描く時、今までは大抵、物忘れが激しくなるとか、記憶を維持できないという形とかなんですけど、今作が描いた「記憶の混濁」というものが、それらよりもずば抜けて恐怖描写に感じられました。
 オープニングでの、アンとアンソニーの会話で、この父娘がどういう状況かが説明されるわけですけど、その次のシーンになると、その状況が全く間違っていることにされてしまうんですよね。それで観客は、最初のシーンはアンソニーの認知症による映像だったと理解するんですけど、ところがその後でも、前の場面を否定するようなシーンが続いて、観客が物語の指標を失い、今がどの位置にいるかを見失うようになっています。
 この不安感がエンディングまで延々と続くという、恐ろしい仕掛けになっているんですけど、これが認知症の不安感となって我々観客に追体験させるためのものなんだと思います。

 アンソニーの視点で、時間軸がわからないまま物語が進んだり、同じ場面が繰り返されたりするのを観ていると、悪い薬でも摂取したような気分になり、かなり酔うんですよね。実際、この作品の映像はハイにならないドラッグムービーのように感じられました。
 自分が書いた戯曲から、こんな前衛的な映像表現を仕立て上げるフロリアン・ゼレールという人も、相当なセンスですよね。初監督作品でこれだというから末恐ろしい。

 介護問題を考える際、やはり自分の親の事を考える人が多いとは思うんですけど、この作品はそれのみならず、自分自身が老いた時の事を(強制的に)考えさせられる作用があると思います。後半のアンソニーの不安感が、映画を観ている自分自身の不安感と完璧にシンクロして、正直、あまりの恐怖に涙を流してしまいました。認知症の介護ではなく、認知症の罹患を我が事のように感じさせる作品は初めての体験だったと思います。

 終盤、自身の想い出という葉が枯れ落ちてしまったアンソニーが辿り着くのが「母」というのも説得力がありますね。よく、老人は幼児へと退行するとは言われていますが、その仕組みを、アンソニー・ホプキンスの名演が証明する形になっています。
 ここに至るまで、妻の記憶が登場しないというのも、語られていないドラマの証明のように感じられます。アンソニーとアンの関係性は、介護生活に疲れた父娘というだけでない、確執のようなものが微妙にあるんじゃないかと想像されます。妹の事はもちろんですが、全く語られない妻の事にも、この家族の影があるんじゃないかと感じました。この影を感じさせる演技がオリヴィア・コールマンにはあるように思えたんですよね。『女王陛下のお気に入り』での愚かな女王役も名演でしたが、今作でもアンソニー・ホプキンスに劣らない演技だったと思います。

 正直、観ていて希望が持てるようなシナリオではないんですけど、この作品に描かれている事は自然の摂理なんですよね。ラストショットが美しい木々の葉であることも、この摂理が繰り返される事、自然の営みの一部である事を示唆しているように思えます。
 自分の親にも、そして自分自身や周囲の人たちにも、少しでも多くの想い出の葉を蓄えておきたいと感じました。

https://cinerack.jp/thefather/


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