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アニメ映画『アンネ・フランクと旅する日記』感想 現代のシビアなおとぎ話

 終わり方があっさりしているのも、おとぎ話っぽい作品。アニメ映画『アンネ・フランクと旅する日記』感想です。

 現代のオランダ、アムステルダム。激しい嵐の夜、博物館に保管されている『アンネの日記』に異変が起こる。日記の文字が動き出し、アンネの空想上の友達だったキティー(声:ルビー・ストークス)が姿を現した。
「アンネ、どこにいるの?」
 キティーは、アンネ(声:エミリー・キャリー)が書いた日記の記憶しか持たず、街の人々がなぜ皆アンネを知っているのか、なぜ学校や劇場にアンネの名前が冠されているのかを知らないままだった。キティーはアンネを探し求めながら、難民として苦しむ人々を目の当たりにして、ユダヤ人として迫害されたアンネの日々を思い出していく…という物語。

 知らない人はいないであろう、第二次世界大戦下でのユダヤ人少女が遺した『アンネの日記』。アンネ・フランクが空想の友・キティーに宛てて、その日記を描いていたことから着想を得て、アリ・フォルマンの監督・脚本で制作されたアニメ作品です。
 ウクライナ・ロシアの情勢急変で、今また新たな戦争が始まってしまったこともあり、何となくこの作品が気になって観てまいりました。

 知らない人はいないといっても、自分なんかはきちんと『アンネの日記』を本で読んだことはなく、隠れ家で息をひそめた生活をし続け、収容所で悲劇の末路を迎えたという事実として知っているのみでした。
 今作で描かれるのも、キティーが知っているはずのアンネはどこにも居なく、偶像としてのアンネが語られているばかりで、そのことがキティーにとっては戸惑う現実となっています。博物館に開館前から並ぶ人々も、人間としてのアンネを本当の意味で知っているわけではなく、名所だから見に行っているというような描かれ方なんですよね。

 そして、その人間・アンネとしての姿が過去の回想として描かれているわけですけど、悲劇の少女、戦争の犠牲者という姿ではなく、思春期の面倒くさい思考の女の子、異性に興味深々の年頃の女の子、母親にイラついてしまう反抗期の女の子という、聖人君子でも偉人でもなんでもない平凡な姿なんですよね。そして、その子が戦時下、それも国策として人種差別される状況に置かれていることが異常さを際立たせています。
 だから、偶像としての漠然としたイメージだけしか知らずに、アンネ・フランクから距離のある自分のような人間には、今作がアンネを理解させてくれるガイドのような作品になってくれました。

 さらに、難民問題を取り入れることで、キティーが現代に出現した意味を持たせているのも、ただの歴史教科書作品にはせず、現在の物語にするという意図があると思います。キティーが行き場を無くした難民たちの生活と、アンネたちの生活を重ねているのは、台詞にせずとも明らかだし、マイノリティが排除され続けているという現代は、第2次大戦での異常な世界から、大して変化がないと思えてきます。

 キティーが難民問題の解決に尽力するのは、やや力業な脚本ではあるし、アンネの偶像化を嫌がっていたキティー本人が、解決しようとすることで難民問題の偶像化のような形になるのは皮肉な感じもします。ただ、アンネ・フランクが生きて難民問題を目の当たりにしたら、キティーと同じ行動を取るようにも思えます。それだけ描き方に説得力があったということです。

 しかし第2次世界大戦終結から、技術革新など世界は様変わりしているのにも関わらず、戦争という無意味で生産性のない行為が無くなっていないことに暗澹たる思いがありますね。
 それでも、美しい瞬間を生み出そうとする作品は数多くありますし、そのために励む人々の美しさというものも確実に在るはずなんです。そこだけは信じて生きていきたいと、そんなことを考えさせられました。


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