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映画『せかいのおきく』感想 様々な人の役割が彩るモノクロの青春

 ストレートで現代に突き刺す時代劇。映画『せかいのおきく』感想です。

 江戸時代も末期に差し掛かる安政の世。武家の娘であるおきく(黒木華)は、現在では浪人の身となった父の松村源兵衛(佐藤浩市)と貧乏長屋で暮らしながら、寺子屋で読み書きを教えている。おきくが気になっているのは、紙屑拾いをして生活をする中次(寛一郎)という若者。中次は、下肥買いを生業とする矢亮(池松壮亮)と出会い、共に下肥買いの仕事を始める。
 そんなある日、過去の因縁から命を狙われていた源兵衛は、おきくの目の前で切り捨てられ、おきく自身も巻き添えとなり喉に傷を負う。一命を取り止めたおきくだったが、その傷は深く、声を失ってしまう…という物語。

 『亡国のイージス』『北のカナリアたち』などで知られる阪本順治監督による時代劇作品。黒木華さん、池松壮亮さんと、好みの役者陣であり、予告編での全編モノクロの画面に何か惹かれるものを感じて観てまいりました。
 時代劇とはいえ、司馬遼太郎や池波正太郎原作といった昔ながらの歴史もの、チャンバラ映画では全くなく、むしろ現代に影響を与えるべく創られた物語に思えました。
 
 画面から臭い立つように強調されている下肥買いの仕事ですが、これは要するに肥溜めから排泄物を回収する仕事なんですね。現代の感覚なら、汲み取り回収をしてお金をもらうものと思いがちですが、むしろ金を出して糞尿を買い取り、それを農家に肥料として売るという商売になっています。
 ここ数年で、SDGsという言葉が広まり、エネルギーや資源は有限である事、世界を持続させるためには循環する社会の仕組みを作らなければならないと、様々な人々や企業が取り組みを始めているわけですが、そんな理念も全くない江戸時代に、循環型社会が既に生まれていたという事を描いています。
 
 もちろん、作中の人物たちはそのような意識は全くなく、元手なしで始められる手っ取り早い仕事として、矢亮も中次も下肥買いの仕事に飛びついているんですね。この作品の人物たちは、自分たちの行動の尊しさ、美しさのようなものに全く気付いていない人々として描かれています。そこが、現代の理念ばかりが先走っているSDGsと違い、賢しらでない好感さに溢れているように感じられました。
 矢亮と中次は、汚物に塗れた仕事ということもあり、当然差別の目を向けられることも少なくないのですが、その描写も現代で見られる差別の類と、それほど大差はないように感じられます。必要以上に、江戸の世が劣った時代ではないという描写にも感じられます。
 
 この作品世界で描いているものは、人には役割があるということだと思います。声を失ったおきくが、自分を取り戻すのも、孝順(眞木蔵人)が寺子屋での字を教える仕事を続けて欲しいと懇願されてからだし、汚らしいと避けられる矢亮と中次の仕事は、それが遅れるだけで、便所からは汚物が溢れてしまう影響が出てしまうことが描かれています。
 
 先述の通り、自らが果たしている役割の重要さに、皆が気付いていないわけですけど、この作品の時代設定が江戸時代の安政になっているのは、それが変化し始める兆しとしているようにも思えます(源兵衛が斬られるのも、説明はありませんがこの後に控える「安政の大獄」に関わることのように見えます)。
 この辺りから江戸時代は終焉に向かい、明治維新に向かっていく始まりの時期と考えると、人々が世界の仕組みを知る時代がすぐそこまで来ている時代として描いているように感じられました。つまりは、目覚め始めている民衆の姿を描いているんじゃないかと思うんですよね。
 
 クライマックスで孝順が「せかい」という言葉の説明をする時に、おきくや中次を含めた全員が説明の意味がよくわからないという微笑ましいシーンも、人々が「世界」に気付き始める姿を描いていると考えると、ただのコメディパートというよりは、かなり作品の主題を捉えたシーンのように思えます。
 
 物語として描かれているものは、循環型社会としての姿であり、若者の恋愛を美しく描いている至極真っ当な青春ですね。それをあえて糞尿塗れにさせているという点を差し引いても、物凄くストレートに善なる物語になっています。こういう真っ直ぐなメッセージの作品が創られているということは、現実はどれほど歪んでいるかということを改めて感じますね。そんな見方をしてしまう自分の性根が捻じ曲がっているのかもしれませんが、爽やかな余韻と共に、少し暗澹たる気持ちになってしまう作品でもありました。


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