「当たり前のこと」がいつの間にか「不便」を作り出している。

 はい!やってまいりました。孝太の雑録。
 7月に入りました。今年も残り半分を過ぎましたが、頑張っていきましょう。

 前に「慣れ」についてという記事を書きましたが、今日はそれに関連するお話です。

 先日のことですが、母が外に出かける際に、携帯電話を持っていくのを忘れたんですよ。で、用事が終わった後、公衆電話から家に電話するので迎えにきてくれと父に伝えて、一旦帰りました。それから数時間経ちましたが、一向に母から電話がありません。「一体どうしたのだろう?」と心配していると、母が帰ってきました。
 母曰く「公衆電話を探したものの、どこにもなく、困っていたらちょうどバスが来たので、乗って帰ってきた」との事。
 これ、変じゃないですか?確かに携帯電話を忘れたのは悪いかもしれないけど、普通は公衆電話の一つや二つ、公共電話に置いてあるものですよね。それが撤去されてるんですからね。携帯電話が普及したとはいえ、10年前はまだ駅にはあったんですよ。それが便利になるに伴い、消えたわけです。
 でもこれって怖いですよね。「携帯電話を持っているのが当たり前。だから公衆電話なんて要らない」という事なんですから。でも災害が起きたらどうなるの?東日本大震災の時、携帯電話は繋がらなくなりましたよね。確かにあの時よりは電波は強化されたかもしれないけど、携帯電話自体を持っていない人だってまだまだいるんですよ。その人達を「遅れてる」「非常識」で片付けて良いのでしょうか?
 このような状況を見ると、やはり日本は多数派に甘い国だと思わざるを得ませんね。そして、ここにも「皆が携帯電話を持ってるんだから(あなたも)買わなければならない」という同調圧力を感じます。
 後、同じ事が先日のオンライン授業にもいえますね。今時インターネットをひいてない家なんてあり得ないって考えからなのは明らかです。こうなると諸事情でひいてない人は取り残されてしまいますね。
 まさに「悪しき平等」です。
 世の中が便利になることは悪い事ではありません。しかし皆、その状況に慣れてしまい、同じ事が出来ない少数派の人の事を忘れてはいませんか?
 本当に平等な世の中を目指すのであれば、他人への配慮を忘れてはいけないと思います。そしてそれが、本当に便利な世の中に繋がるのではないでしょうか。

 今日はこれで終わります。最後までお読み頂きありがとうございました。

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