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『SDBs』~ 第1章 赤き沈黙(1)

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(※目安 約4,300字)


 第1章 赤き沈黙(1)


 何事もほどほどがちょうどいい。たとえば睡眠。寝不足はもってのほかだけど、寝すぎたら寝すぎたで、時間を無駄にした絶望感と激しい頭痛に襲われる。それからご飯だって腹八分目でやめておくのが一番美味しい。
 期待もそうだ。ほどほどの期待は対象をより輝かせプラスの効果を与えるけれど、期待があまりに大きくなりすぎると、それはそのうち超えられないハードルになる。



 ——こんなはずじゃ。
 目の前に突き付けられた現実に、赤嶺緋色あかみね ひいろは思わずきつねにつままれたような顔になった。
 放課後呼び出されたのは、おおかた今日の授業中居眠りをしてしまった件で「先生の有難いお話」でもされるのだろう、と思っていた。ほんの数分前までは。

「あの……こんなはずでは……」
「当然だ! こんな点数を取るつもりで取るやつがいるか!」
 緋色の担任である浅沼道丈あさぬま みちたけの荒々しい声が職員室の天井に突き当たって跳ね返る。
 デスクの上には3枚の用紙が広げられていた。高校入学後すぐに実施されたお迎えテストで緋色が記入した答案用紙だ。すでに採点済みである。

 数学 63点
 英語 62点
 国語 68点

「本来なら各科目の授業時に返却するものなんだがな。お前の今日の授業態度を見て喝が必要だと判断した。ったく、狙ったかのように60点台ばかり取りやがって」
「実はそれは狙いました」なんて言える雰囲気ではないが、点数自体はほぼ緋色の予定通りだった。新しい環境、最初の段階でデキる奴だともデキない奴だとも思われたくない。そんなレッテルを貼られたが最後、それは自分を苦しめるに違いないと考えていた。狙い通りの点数だ。
 こんなはずでは——というのは点数自体ではない。
「いや、あの……平均点が79点なんてこと普通ありますかね? 69点以下が赤点……? 俺がクラス最下位……って、あの、何かの間違いでは……」
「間違っているのはお前の答案だ!」
 冷静を装いへらっと笑いながら尋ねた緋色は食い気味に一蹴された。浅沼は深いため息をついたあと「あのなぁ」とトーンを落として続ける。
「特進に来てる奴は皆それぞれ志を持ってここに来てるんだ。ついでに受けたら特進コースも受かったからなんとなくじゃあ特進で、なんて気持ちでいられる場所じゃないんだよ」
 浅沼の声が徐々に元の荒々しさを取り戻していく。
「別に強制ではないが入学前に高校の予習をやってきている奴が大半だ。中学の範囲しか出題されていないこのテストはできて当然なんだよ。それをこの点数で、そのうえ『平均点が間違いでは』って、お前はいつまで中学生気分でいるつもりだ! 高校を舐めてんのか!」

 ——ああ最悪だ。
 入学早々こんなふうに職員室に呼び出されて派手に怒られていることも、たいていのことはそれなりにこなしてきた自分がクラス最下位の点数だったことも、ましてやそれがわざと手を抜いた結果だってことも。
 ——違う、本当はもっとできるし、わざとだし。
 それを口にするほどガキではない。敢えて平均点を取りに行くという行い自体が馬鹿げたことだと心のどこかで薄々気が付いていた。ばちが当たった。
 それに今の自分がもう一度本気でこのテストに取り組んだとして、自分が下げていなければもう少し高かっただろう平均点をしっかり取れたかどうか、正直自信がない。
 ——でも入学早々ここまで言うことないだろ、俺が不登校になったらお前のせいだぞ。
 やっぱりまだまだガキなのかもしれない。こんなふうに自分以外の非を探して感情の矛先を向けなければ、今にも涙が落ちてしまいそうだった。
 羞恥、苛立ち、後悔、嫌悪。いろんな感情がグルグル弧を描いて混ざり合い、だんだんと黒になっていく。恥ずかしい。格好悪い。情けない。悔しい。バカかよ。今すぐここから消えてしまいたい。

 恐らく歪んでいるだろう表情かおを隠すように緋色がうつむいた時、ちょうど横目に床を軽く擦りながら近付いてくる誰かの足元が見えた。緋色たちの目の前でぴたりと止まる。
 ——サンダル。
 つーか学校で素足って。怪訝けげんに思ったが顔には出さないようにして、足元から順に観察していく。足の爪にはグレーのマニキュア——たしかペディキュアって言うんだっけ。丈の長い白衣。中はちょっとラフすぎるくらいのボトムとインナー。カフェラテみたいな色の髪は肩につきそうなくらい長く、後ろ髪の上半分だけを緩くまとめている。口には棒付きキャンディ。
 ——なんだ、この人。
 視線が観察対象の頭のてっぺんまで辿り着いた時には、残念ながら緋色の「怪訝な顔」は見事なまでに完成していた。

「……浅沼先生。声が職員室中に響いています」
 見た目に似合わず物静かな声だ。いやむしろ、いかにも気怠そうな雰囲気にはお似合いの声なのかもしれない。どことなくハーフっぽい顔立ちは中世的で、一瞬女性かと思うほどだ。少し悔しいが正直綺麗だと緋色は思った。
「ああ、深見ふかみ先生。悪いが、どうにも腹の虫が治まらなくてね」
 浅沼が「深見先生」を一瞥いちべつして、デスクの上の答案用紙に目線をやると、彼の目線も同じところを向いた。
「…………ああ」
 ——ああ、って。白衣を着ていなければ教師だと分からないようなたたずまいのこの人に、なんか勝手に納得されるのめちゃくちゃしゃくなんですけど。
 つーか誰——
「…………赤嶺」
「はっ——⁉︎」
 不意にぼそっと呟かれた自分の名に、答案の氏名を読み上げられただけなのか、名前を呼ばれたのか分からず、緋色の返事は曖昧になった。
「……きみが、居眠りの赤嶺くんか」
「なっ——⁉︎」
「ん? 深見先生、赤嶺のこと知ってるのか?」
「…………いえ。授業中に居眠りを注意する浅沼先生の声、廊下まで聞こえていたので」
「あーはっは、そうだったか! それは失礼したな」
 ——何笑ってるんだよ、イライラするなあ。
「……いえ。でも浅沼先生、あまりカリカリしすぎるのも良くないかと。……これどうぞ。カルシウムたっぷりミルクキャンディです」
 深見が膨らんだ白衣のポケットから棒付きキャンディを取り出して浅沼に差し出した。
 ——いや、え、メンタル強っ。天然か?
 深見よりも浅沼の方が、少なくとも一回りは上に見える。しかも先刻までご立腹だった恐らく大先輩であろう相手に物怖じせず、遠回しに「カルシウム摂れよ」と言っているのだ。いや、遠回し……なのか?
 ——なんだ、この人。
 深見に対する印象がほんの少しプラスに変わり、若干の興味が湧いた。
「……きみにも、あげるよ」
 ありがとうございます、と受け取った棒付きキャンディは赤い水玉模様の苺味だった。
「あの、これ、赤い水玉……遠回しに赤点馬鹿にしてるわけじゃないっすよね?」
 緋色が尋ねると、深見はフッと笑い、質問に答える代わりに思い出したように自己紹介をした。
「……俺は、深見灰斗かいと。きみのクラス1年A組の副担任だよ、よろしく」
 白衣の裾を翻して立ち去る背中を睨む。緋色の深見に対する印象は、前言撤回、やはりマイナスに戻った。



 ここ私立秧然おうぜん学園高等学校は敷地面積において国内でも有数の広さを誇る。充実した施設設備はもちろん、敷地内にストーンバックスやミセスドーナツもあるとのことだ。
 中でも緋色が気に入ったのは、連絡通路を渡った先にあるメディア棟だ。そこには蔵書数10万冊以上の大きな図書館のほか、生徒が自由にDVDを観られるメディアルームまである。

 職員室を後にした緋色は、連絡通路を歩きながら広い中庭を見渡した。綺麗に手入れされた幾つもの花壇。青々と茂る人工芝。数本の大きな桜の木がそれぞれ立派に花を咲かせ、その下で何人かの生徒たちが楽しそうにはしゃいでいた。
 緋色が着ているのと同じ色の制服。黒色のブレザーに、深緑ふかみどりと灰色を基調としたチェック柄のスラックスあるいはスカート、男女共通の緑色のネクタイ。緋色が受験前に学校見学へ来た時、この黒のブレザーが妙に大人に見えてかっこいいと思ったのを覚えている。

 ——期待、しすぎちゃってたかなあ。
 綺麗な校舎、パーフェクトな施設設備。スタイリッシュな制服。新しい学校。新しい環境。新しい生活。ほどほどが一番だと言いながら、いつの間にか心の奥底で期待が膨らんでしまっていた。自分もあんなふうに眩しい青春を送れるのではないか、高校生になったら、もしかして新しい自分になれるのではないかと、どこかで思っていたのかもしれない。
 でもそうではないのだ。環境が変わったところで、人生とはあくまで自分の人生の地続きなのだと、自覚してしまった。

 目当てのメディアルームに辿り着いた緋色は、早速DVDの棚を物色し始めた。学習DVDだけではなく映画も多数揃えられている。
『レノン』『ウッズ・ガンプ』『フロント・オブ・ザ・フューチャー』『オールド・シネマ・エデン』名作揃いの棚に緋色の胸が高鳴る。思い描いた高校生活よりも険しい日々にはなりそうだけど、こうして数々の作品が並んでいるのを眺めていると、ここに入学できたことは心から良かったと思う。
 緋色にとって[映画]は息苦しい現実から連れ出してくれる、居心地の良い世界だ。なんのリスクも代償もなく、何者にでもなれる世界。あらゆる人物の人生を体感できる世界。
「うおっ……!」
 興奮して思わず声が漏れた。『カンニバルシリーズ』も4作すべて揃っている……!
 今日はこれにするか、と緋色はシリーズ1作目『山羊やぎたちの沈黙』を手に取った。これなー。見どころは山ほどあるけど、やっぱりヒロインと猟奇殺人犯の会話のシーンが引き込まれるよなー。悪役なのに魅力的なんだよなー。ヒロインが心を開いてしまう気持ち解るんだよなー。
 正式にテストが返却された後の放課後は補習だと予告をされた。今のうちにできる限り楽しんでおこう。



 結局、校門前発のスクールバス最終便の時間まで残ってしまった。20時前ともなるとさすがに辺りはもう暗い。バスは学校と複数の電車駅とを繋いでくれる。終点で降り、家の最寄駅から徒歩5分のマンション。エントランスには夜間警備のおじさんの姿があった。緋色は軽く会釈をして通り過ぎた。
 エレベーターで10階まで上がり、自宅の重たいドアを開けると、玄関にはいつも通り女性物の靴が一つ。
 靴を脱ぎ捨ててすぐさま左手の自分の部屋へ入ろうとしたが間に合わなかった。廊下の突き当たり、扉を開くとすぐにキッチンがある。その距離から声を掛けられた。
「緋色くん、おかえりなさい。遅かったのね」
「うん」
「今日は、どうだった?」
「何が?」
「あ……。ううん、ごめんなさい、なんでもないわ。……えっと、ごはんは?」
「今お腹空いてない。後で食べるから置いといて」
 そう言い捨て相手の返事を待たずに部屋に入ると、緋色は閉めた扉にもたれるようにしてその場に座り込んだ。
 明かりを点けないままの部屋の中で、腹の虫がクゥーっと情けない声で鳴いた。





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※この物語はフィクションです。実在する人物、団体、取り組みの内容等とは関係ありません。


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