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Yet21~孤独が見つけた居場所~

Yet21~踊り場のわたしたち~」は、私たちの運営するWebメディア・AETEで始めた、21歳体験記を集める読者参加型企画です。

自分の今までを見つめなおし、これからを考える、まさに「人生の踊り場」のような時期である21歳。
その物語をAETEに集めることで、選択や葛藤の渦中にいる誰かの救いになったり、そっと背中を押したりできないかという想いから生まれました。

人の数だけある21歳の物語。先週に引き続き、AETE編集部のものをお届けします。


掃除、洗濯を済ませ、昼食に使ったお皿を片付けた後、家の中で一番お気に入りの窓辺に座って部屋を見渡す。
東京に来て7年。上京して最初に住み始めた学生寮の6畳一間から1Kへ、そして今年の春からは恋人と2人暮らしを始め、坂を少し上った先にある、1LDKの部屋で暮らし始めた。
丈の短いカーテンをいつ買い換えようかと眺めながら、だけどこのままずっと買い替えないような気もしている。
最近の休日はこんな感じで、いつカーテンを買おうか、今日の夜ご飯は何にしようか、冷蔵庫に入った具材は何から使うべきか。なんの変化も起きないまま、今日も後半戦を迎えようとしている。
ふと、最近上司に勧められて読み始めた「スラムダンク」の単行本の山が目に入った。
バスケに熱中する彼らの熱くて儚い毎日に、羨ましくも、どこかで(あんなに辛く厳しい日々はもうこなせないよ)と諦める今の私。
儚くも熱く忘れられない、21歳の日々を思い出す。
たったの3年前の話なのに、自分を振り返ろうと見返した手帳や日記には、遥か遠く切なく、愛しい自分の姿があった。


なんとなく違う、なんとなく自信がない、なんとなく、違和感。
21歳になったばかりの私は1月、大規模な合同説明会の無料シャトルバスに揺られてそんなことを考えていた。
「なんとなく」の理由を、誰か教えてください。
悩みはあるはずなのに何を相談したら良いのかわからず、もやもやとした言葉は口に出す前に心に染みをつけて形を失う。染みは一度ついたら消えることはない。
きっと自分だけがその染みを取り除ける方法を知っている。でも今は、そんな私が導く答えにとにかく自信がないのだ。大学4年の春は、染みだらけの心を抱えていくしかない。
シャトルバスに乗り込むために40分並んだ大行列は最後の1人が私だった。
「ごめんなさいね、満席なので」と案内された補助席の薄い椅子に座った私は、他の就活生からの視線を集めないように、真ん中の席で小さく座っていた。慣れないスーツを早く脱ぎたい一心で、助けて、と小さく呟く。満杯のバスで感じた息苦しさは降車しても続いた。

それからも「なんとなく」就活を始めてみたけれど、「なんとなく」と感じたら結構な確率でお祈りメールが届いた。いわゆる不採用通知のことだ。一番思い出深いのは、バイト先だったパン屋の早番が終わり、更衣室で携帯を開いた時に同時に3社から不採用通知のメールが届いていた2月のことだ。
何となく落ちることはわかっていたのだけれど。でも、「あなたと一緒に働きたいです」と言ってくれた面接官の顔を思い浮かべると、神様でさえも結果が見えないままに私を試しているのだと思った。LINEに届く恋人からの根拠のない「大丈夫」だけが、当時の私を形取ってくれた。


落ち込むこともたくさんあって、私は就活を一度忘れることにした。
就活解禁日の3月1日、説明会の通知が後を絶たないなか北海道へ向かった。同級生たちが就活サイトに足を踏み入れるなか、北の大地へ足を運ぶことはどこか可笑しくて自然と微笑んでしまう。
北海道ではインターン先の会社が主催するイベントの手伝いをすることになっていた。1人で飛行機に乗り、旅先で社長と落合う。
未知の場所で知っている人に会うのは安心が伴って心地よかった。そうして「ほっとした」思いをするのは久しぶりであることに気づく。そうか、就活も同じだ。
未知の世界を生きる21歳、未知の場所で心地よさを知る北海道の旅。
久しぶりに大きく息を吸う。北海道の大きくて広い空が新鮮だった。

イベント会場には、沢山の人で溢れていた。札幌の街を盛り上げようと物作りや食へ思いを馳せる、計6名の方の物語。それから、共に物語を共有し合おうとやってくる沢山のゲスト。みんな、はじめましての人たちだ。
合同説明会の、アジェンダに沿って進められる大衆用の説明フレーズよりも、街の小さな片隅で、今日も誰かのためにコーヒーを淹れたり、チーズに夢を託したり、箒に命を吹き込んだりする彼らの自由な物語を聞くことで、いつか染み付いて取れなかった心の染みが消え去っていくのに気づく。
彼らやゲストと過ごす数時間。面接の時間と変わらないくらい短い時間だったけれど、好きなことを共有し合うことで、「あなたと一緒に働きたいです」と伝えてくれた面接官の何倍も、私は彼らに自分の素直な気持ちを伝えることができた。
北の大地で感じたこと。
私は彼らの想いが伝わる場を、自ら生み出せるような人になりたい。
就活が終わった。そして、AETEを作る挑戦が始まった。


そして始まった1からのメディアづくりはわからないことだらけ。
21歳、秋。AETEのお披露目会を実施することになった。
初めて担当する企画だった。参加者も開催場所も内容も、これまた1からの挑戦だった。
誰かを巻き込む企画には責任が伴う。これまで学生の私が見つめていた、真っすぐで無責な想いだけでは上手くいかないことを痛感する日々。
誰に届けたいのか、提供できる価値は何か、現状と課題と改善点、広げるためのHOWTO。
就活が終わっても、自分が何を伝えたいのかわからないまま月日が流れるばかりで、自分が土台を作る大切な役であると分かっているからこそ、尚更焦るばかりだった。
特に大切にしたかったのは、「私が作り上げるものだからできること」。
私はとにかく無力だった。再び答えのない迷路に入り込んだ時、ひたすら絶望していた。

準備も最終確認のみとなった前日、私はこれまで物語を紡いだ沢山の人々の顔を思い浮かべながら、既に出来上がっていた50近いレポートをもう一度、一から全て読み直してみた。
これまで私の背中を押してくれた彼らの物語が一つ一つ鮮明に蘇ってくる。
21歳の私は確かに無力かもしれない。だけど人生の先輩である彼らから物語を受け継いだ私は怖いもの知らずだった。

「素敵な文章ですね」「楽しかったあの時間を思い出しました」
「家庭内での地位向上に利用させていただきます!」
「作った料理は無くなってしまうけど、この気持ちはいつまでも無くならず、色鮮やかに、私のレシピにさせていただきます」
また、こんな声を聞くことができたら。
そしてこれから物語を紡いでいく人がいるとすれば、物語の掛け算が美しいということをもっと知ってほしい。
ふと閃いた深夜のアルバムづくりは、早朝まで続いた。

お披露目会当日。
旅先で出会った人を始めとする沢山の人がメディアの誕生を共に喜んでくれて、美味しい料理と大好きな人に囲まれて、これまで私がみてきた景色を、自分の言葉を通じて誰かに伝えることができた初めての経験だった。複数のコミュニティが横で繋がるこの感覚を作り上げた達成感。そして、心地よい居場所が出来たことへの安心感。

彼らの想いが伝わる場を、自ら生み出せるような人になりたい。
これからも、AETEを大切にしよう。


弱かった自分は今も変わらないけれど、あの時の一つ一つの出会いが一つのメディアを生み出し、物語の掛け算はこれからも新たな物語を生み出すと信じて、今日も受け継いでくれる人たちがいる。
何が正しかったなんかわからない。答えもきっと、神様だって知らないはず。
ただ変らない事実として、今私は、丈の短いカーテンから差し込む陽の光を受けながら、自分の21歳と向き合い文章を綴っている。

「あきらめたらそこで試合終了ですよ」
そうですね、そうでした。まだまだ、私は若いのだ。

この文章は、当時の私が綴った日記文を引用しながら作りました。
21歳の私と、24歳の私の、共同合作。

AETE初代編集長

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