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翼くんからの卒業 〜 ボールは友達じゃない

日本サッカー史上最高の選手

「日本サッカー史上最高の選手は誰か」と聞かれれば、釜本邦茂でも中田英寿でも本田圭佑でもなく、間違いなく【大空翼】である。

サンパウロFCやFCバルセロナでもプレーし、ジダンやトッティなど、数々の世界的名選手に影響を与えたレジェンド・ツバサ。

翼がバルサに入団する話に言及し、当時のレアル・マドリーの会長が「なぜレアルにしなかったのか」と話したとか。これは実話。

日本ではまだ野球が全盛でサッカーなどマイナースポーツだった1981年に颯爽とデビューした彼のおかげで、日本中の子どもたちがサッカーに目覚め、サッカーを始めた。

あれから30年。
日本中で「翼」という名前の子が大幅に増えた。翼という名前の子のお父さんは、99.99%サッカー好きだ。

僕も当時のキャプテン翼ブームに乗っかり、当時は熱中して読み漁った。サッカーを始めたのは中学生からだったけれど、間違いなく僕も、キャプテン翼がなければサッカーは始めていなかったと思う。

ただ僕は
翼派ではなくどちらかと言えば岬太郎派で、もっと言えば三杉くん派だった。
松山くんも捨てがたい。
キャプテン翼の中での本当の名勝負は翼と日向小次郎が対決した全少の決勝戦ではなく、翼と三杉くん、そして日向と松山くんがそれぞれ対決した準決勝の2試合だったと思ってる。

「せっかく松山くんがPKとったのに、何で急に若島津が出てくるんだよ。ズルい!」と小学生ながらに本気で悔しがった思い出があるし、心臓病を押して戦う三杉くんに感情移入して、僕にとって準決勝での翼はほぼヒールだった。

すみません熱くなりました。

ともかく
大空翼は日本サッカー史上最高の選手というだけでなく、日本のサッカー人口を爆発的に増加させた、最大の功労者。

・・・

というかまぁ
もちろん、本当の功労者は高橋陽一先生である。先生、本当にありがとうございます。

さて

【キャプテン翼】が日本サッカーにもたらした功績は、もちろんここだけでは簡単には説明できないほどに絶大なもの。

まずそれが大前提にあることは、誰もが認める事実として。
しかしその反面、キャプテン翼が日本サッカーにもたらしてしまった《弊害》について、今日は書きたいと思うのです。

日本のサッカー選手そして指導者たちは、もうそろそろ「ツバサ症候群」から脱却・卒業しなければ。特に指導者ですね。

そうしないと、サッカーはいつまでもサッカーのまま。フットボールの領域には決して辿り着けない。

ボールは友達 なのだろうか

キャプテン翼の代表的なフレーズといえば「ボールは友達!」
翼が言ったのかロベルト本郷が言ったのかはもう忘れたけれど、とにかくこのフレーズは大空翼、いや【キャプテン翼】の作品においても代名詞と言える有名なフレーズ。

寝る時もボールを抱いて眠り、家から学校までもドリブル。
試合では11人抜きも当たり前、ボールと一緒にゴールインも珍しくない。

そんな「ボールは友達!」の大空翼。

エースで10番。もちろん当時の実写版フットボールの世界でもジーコ、プラティニ、そしてマラドーナという10番栄光を誇っていたし、日本でも、80年代の10番といえば木村和司さんだった。
その後も、そして今でもまぁそうかな。ジダン、バッジョ、ストイコビッチ、トッティ、ロナウジーニョ、メッシ⋯

チームで一番のファンタジスタは一番目立つ存在で、10番。
ここまではまだいい。決して翼くんのせいじゃない。

ただ、ここからは僕の完全なる独断と偏見な思い込みなのでどうか怒らないでほしんですけど

ボール偏重、ボールが主語

【キャプテン翼】の出現以降、ボールが友達で毎日ドリブルしながら学校に登校し、試合でも無双しまくる翼くんの圧倒的な影響力が強すぎて、日本では特に「ボールを扱うのが上手い選手」が「巧い選手」なのだという方向に振れ過ぎて、偏重し過ぎてしまったのではないかと個人的には思ってます。

「上手い」と「巧い」は、同じ読みでも意味合いは違う。少なくとも、フットボールではそう。
他のスポーツでも同じような言説があるかどうかはわからないけれど、たぶん他でもそうでしょう。

ボール扱いやドリブル(リフティング)が上手いことと、フットボールが巧いことは決定的に違う。

ただ、日本ではこの「ボール扱い」への振れ幅が大き過ぎて、まずボールありきというか、フットボールというゲームの主語が「個人」になり、そして個々の選手のプレーにおいての主語が「ボール」になってしまった。

主語 = 始まり、と言い換えてもいいかもしれません。

巧さではなく上手さが優先されてしまったことで、本当にフットボールが巧いってどういうこと?という、ある意味本質的な部分を疎かにしてきた指導者は多いし、目に見えるボール扱いの上手さでしか選手を見れない、つまりフットボールの本質を見れない語れない指導者のおかげで、本当の巧さ、言い換えればフットボールの肝、みたいなものが蔑ろにされてきてしまった。

チームのプレーの始まりは、個々がボールを持つところから。
個々のプレーの始まりは、ボールを持ってから。

これ、明らかに間違ってますよね。けど、こういう選手がとても多い。

いやこれが正しい!と信じている人もいるだろうからそれは尊重するけれど、
これだと味方との繋がりは薄くなり、プレー自体が遅くなります。

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例えば、オフェンスにおいての考え方をあげるならば

最後は前向きでシュートを放てる選手を創り出すために
・味方と協力して相手の思考(予想)の上を行く
・味方と協力して相手の時間を遅くする(この方法はまた別途)
・味方と協力して相手を動かし、空いたスペースを有効に使う
もちろんこの中で、特に局地戦においての個々のしなやかさ、咄嗟の発想、逆取り、突破のスキルは超必要となってくる。

考え方は多々あるだろうけれど、僕はまぁこんな感じで考えていて。

ここには、味方と繋がって味方と連携して、という大前提があります。
そして
我々を邪魔し、前進させないよう、背後を取られないよう、シュートを放たれないようにと立ちはだかってくる相手もいる。

味方と繋がり、味方と連なる。それを邪魔する相手もいる。その中での自分。
味方と繋がり、味方と連なる。それを邪魔する相手もいる。その中での自分。

大事なことなので2回言いました。ついでに太字でもう一度。
味方と繋がり、味方と連なる。それを邪魔する相手もいる。その中での自分。

選手は、ピッチ上での自分自身をこういう尺度で考えたほうがいい。
自分とボールだけ、という狭い尺度ではなく。

フットボールのゲームが繰り広げられるピッチは、味方と相手がいてこそ成り立っている。つまり「人」だ。

フットボールの主語は「人」であり、何を観て、何をいつ判断するかの基準も「人」になってくる。

人の位置によってスペースの有無も場所も広さも狭さも変わってくるし、相手をどう動かしてどのスペースを空けさせてどう使うかも、味方との繋がりと連なりで実現させていく。

「その一連の中で、もちろんボールもあるけどね」くらいの感覚でいたほうが、ボール扱いという呪縛からは自由になれるのではないか。

人の位置や様子を観て(時には観ず)
頭で考え(時には考えず)
意識的に(時には無意識に)動いていく。

これがフットボールにおけるプレー。

この中で、ボールをこうさわって、さぁどうしよう、なんていちいち始めてる余裕はない。

ボールを始まりにしてはいけない。
「ボールを受ける前に、自分のプレーはとっくに始まっている」という感覚と概念でプレーしたほうがいい。

味方、相手、スペース、その先のゴールという輪があって、その中に自分がいるという感覚。この輪を俯瞰で見る感覚。
この輪は常に動いていて、その中に自分も身を置いている。そしてこの輪の中に、時にはボールも入ってくる。これくらいの感覚がいい。自分のアフォーダンスを感じ取ること。

そのほうが、結局はボール扱いもたぶんうまくんじゃないのと思うわけです。

最初と最後をボールにしない

これは声を大にして言いたいのだけれど
「プレーの最初と最後」を、ボールにしちゃいけないんです。

ボールを受けて、自分のプレーが始まる(遅い)
ボールを離して、自分のプレーが終わる(違う)

最初と最後をボールにする、ってのはこういうこと。ボールを主語にしてボール基準で考えると、こうなっちゃう。
これが、日本の育成年代でよく見られる(本当によく見られる)サッカー。

ここから、もういい加減に脱却したいんです。
今日、一番言いたいのはこれ。

プレーの最初とは

味方との繋がりの中に身を投じ、そこに意識を置くこと。
味方と連なっていく中で、味方の頭の中を覗いてイメージを共有する。

これがプレーの始まりであり、最初。もちろんまだこの時点ではボールなんてさわってない。

よく言う「ボールを受ける前に周りを観ておけ、考えておけ」ってのも、結局は言葉のニュアンスがボール基準になってるから「ボールを受けて、何をする」という意味で伝わる危険性大。ボールを受けないとしても、プレーは始めておくべきなんだ。

プレーの最後とは

自分が放ったパスが味方に通れば成功、という思考だと、ボールが主役、ボールが主語になっちゃう。
ボールを離しておしまい、になっちゃう。

本当はそうではなくて
「自分が放ったパスを受けた味方が、そのパスのおかげで、次のプレーがうまくいくこと」

これが、自分のプレーの成功。だからパスを放つときは味方に通るか通らないかだけをジャッジの基準とせず
「今、このタイミングでこのパスを通せばアイツはこういうことが出来る、だからパスをする」という思考でパスをしたい。

つまりボールを離したもっと先、もっと後を頭で観て(描いて)そこに意識を向けてプレーしたほうがいい。
これなら、ボールを離しておしまいにはならない。プレーは続いていく。

「最初と最後をボールにしちゃいけない」とはこういうことで、この思考でピッチに立っていれば当然味方と常に繋がっていないといけないし、相手の様子も観て、味方との繋がりの中で連なって動いていく。

意識と目線はその先、もっと先。決して、ボールに意識も目線も向けるべからず。

そうしていく中で「ここ!」「今!」と何らかのサインを出した味方に、自分が合わせてあげる。
味方とプレーをしている中で、必要なタイミングでボールを預かり、次に合わせていく。

その動きの中でボールを扱うことに苦労していたりいちいちボールを見なければならないのだとしたら、味方と協力してプレーを構築していくなんて出来ないということだ。

最初と最後の間にボールがある、という感覚をぜひ。


ボールは道具である

だからこそ、ボールから自由にならなければならない。
ボールにさわることをプレーの始まりにせず意識の始まりにもせず、ボールを最後にもしない。
あくまでもボールは道具。味方とのプレーを実現させるための道具。

ボールから自由になるということは、目と頭がボールから離れること。
目と頭が離れても、ボールなんて不自由なくさわれますよとならなくてはいけない。動いていても、スムーズにボールと関われますよ、と。

ボールをさわろう、扱おうじゃなくて、ボールと一体になればいいんじゃない?
そしたらボールへの意識ゼロでプレーできるやんか。

だからドリ練やリフティング練て、ある意味とても大事なんです。
それをやる意味を、フットボールというスポーツの本質の中においてちゃんとわかっている指導者のもとならば。

ボールから自由になるために、ボールでいっぱい練習することは絶対に大事だし必要。僕だって子どもたちにはドリ練めっちゃやらせるし。
「ドリ練やリフティングなんて意味ないよ、ふっ」などという人も最近は多くいますが、そういう人には真っ向から反発したくなっちゃう派です。

その意味では、そういう「ボールをとことんさわらせる練習」をやらない人、やれない人も、無責任ですよと言いたい。ボールを主語にしないフットボールをさせるなら、ボールから自由にさせてあげることは重要なファクターのうちの一つだから。

ただ。多くの人がボールの使い道を間違えたまま、意味を理解しないままでここまで来てしまったこと、フットボールとはどういうものかを大して探求もせず、目に見える上手さや下手さだけを評価基準にして甘えてきた指導者の責任はとてつもなく大きいよ、ということです。あなた、フットボールのフの字も子どもたちに伝えられていないじゃないかと。

そういうサッカーが育成年代でまだまだたくさん見られるから、今回こういうコラムを書いてみました。

もちろん、フットボールは一個しかないボールを奪い合うスポーツでもあるからボールはとても大事なのだけれど、一番大事なものではない。一番大事な友達、でもない。

ボールは友達ではなく、大切な道具である。

何かをする時に道具を見つめたり、道具を主役にはしないでしょう。

食事をする時に箸を見つめないし、自転車乗る時に自転車を見つめてたら事故ってしまうし、字を書く時に鉛筆を見つめていたら、字は書けない。

ボールも同じ。スマホと同じ。スマホをじーっと見つめて指先でコツコツ文字を打ってたらカッコ悪いし他のものが見えない。さりげなくフリック入力できないとね、ってことです。
フットボールはボールを使って行うけれど、ボールが主語でもないし始まりでもない。ボールに意識が行きすぎて見つめてしまっていたら、他の肝心なものが見えない。

ここで言う肝心なものとは、もちろん人のこと。味方と、相手。
どちらかと言えば僕は相手よりも味方を観るほうが大事だと思ってるから、選手たちにはよくこう言う。

「ボールは友達じゃない。もっと観なきゃいけない本当の友達が、ピッチにはたくさんいるじゃないか」

あと「スマホばっか見つめてんじゃねぇぞ」とも。
(スマホとじゃなく人と生きろって意味と、見ないでもスマートに扱えるようになれっていう二つの意味で)

最後に

今回【キャプテン翼】を持ち出したのは、翼の存在と「ボールは友達」というフレーズがとてもわかりやすいアイキャッチャーだったので、あえてそうしました。翼ファンの皆さんごめんなさい。高橋陽一先生ごめんなさい。決して批判はしてません。僕もキャプつば大好きだし。

作品内でも、チームメートとの繋がりや人間味によってゲームが動くシーンはたくさんある。フットボールにおいて大事な要素を、実はたくさん描写してくれてます。

何かコテコテの指導者目線で長ったらしく書いてしまいましたが、究極は、こんなことなど一切考えずに意識もせずに、ただただ夢中に楽しくゲームに没頭するのが一番!なんですけどね。したいことすればいいんだし。
あぁ、指導者になんかならなきゃよかったかも。そしたらこんな理屈なんて何も考えず、ただただサッカー楽しめてた。ボールは友達だ!って、本気で純粋に思っていられたと思う。

と言いつつ

「ファーストタッチ」という言葉をやめよう
「ボールを受ける」という言い方をやめよう
「1の前には0があるんだぜ」
「さわれるけどさわらない」
「名ストライカーの共通点」

これらも今回の文脈の中で書きたかったのですが、たぶんめちゃくちゃ長くなるので、これはまた次回に。

あと、一連のプレーの中での「最初と最後」だけでなく、ただボールをさわること一つだけの中にも、ボール以外の「最初と最後」があるんだよという話も、次回に書きたいと思います。あーもう、理屈ばっかだ。

今日ここに書いたことを全て口にせず、自然に選手たちに伝わるようにすることが究極の指導であり、名指導者なのだとも思ってます。僕はその域に到達するまで、まだまだ先は長いけれど。

今回の文中において
「サッカー」と「フットボール」をあえて使い分けてるところに、ある種の意図を感じ取っていただけたら幸いです。

おわり


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