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過去は存在しない。問題はこれからどうしたいか(アドラー心理学とメメント・モリ)

アドラー心理学は過去やトラウマを否定します。
それは現在自分が不幸であることをトラウマのせいにすることで
人生に言い訳をし続けるようになってしまうのを止める事と、
過去のトラウマによって出来上がったライフスタイル(傾向性)を
客観的に見て無意識から意識の場所に引きずりだして、
トラウマを無意識に自分の未来を決定づける要素から、
自分の意識で未来を変える一材料へ変換する目的があるからです。
トラウマがこの先の人生を決定づけてしまうなら、
今この瞬間に未来という試合結果は見えていて変えられないという事になります。
そんな人生、味気ないと思いませんか?
僕はフロイトをある程度尊敬しながらも、原因論によって人の未来を
決めつける辺りは賛同できません。
アドラーは子供の頃の経験によってに無意識に選んだライフスタイルを、
客観的に見つめ意識化して、変えていこうという意思を持つことで
今この瞬間から人生は変えることができ幸福になれると説きます。
人生に悩む僕たちが欲しいのは僕らの心の仕組みや行動の原因ではなく
どうするべきかだと思います。

アドラーの言っていることはとてもシンプルです。

「あなたは今この瞬間からどうしたいのか?」


これだけです。
トラウマや過去の思い出は、今この瞬間を変えるための一つの要素、
しかも大して重要でもなく、反面教師にでもする程度のもので
しかありません。
変わる必要があると思ったのなら勇気を持ってライフスタイルと
行動を変えていく他ありません。

確かにトラウマ、過去の辛い思い出が恐怖を作り、その人の行動の幅を狭めてしまう事があるのは事実です。
では何故、トラウマに影響され不幸なライフスタイルを選び取ってしまうかと問われたら、僕はこう答えます。

真剣に自分の人生と向かい合ってないから

これに尽きます。
僕の経験則からお話しますが、人生に真剣に向き合っていない状態は、
自分を不幸と感じて「あーもう不幸だし死んでしまいたいなー」
などと戯言を言いながら、「死」という言葉を出しておいて
自分の死が実際に起きた時のことをリアルに考えてない
そして、死は自分でコントロールできるものと思い込んでいる
ある種の油断や勘違いをしています。
明日は当然のようにやってきて死ぬ時期を自分で選べると思ってるから、
死について、人生について真剣に向き合わず、幸福やそのために変えないといけない部分について考えることを先延ばしにしているのです。
それが楽だからです。
自分の姿を鏡で見つめるより、お笑いを見て笑ったり、
酒を飲んだりしたほうが楽です。
それは確かに息抜きとして良いかもしれませんが、
そればかりしても、物事の根本は何も解決しません。
いつかは自分に向き合う必要があるのです。

僕は姉と結婚した義兄が1年ぐらいで膵臓がんで亡くなった体験を
しました。
義兄は仕事も真面目にこなして貯金もしていたし、姉と結婚して順風満帆、
子供も生まれて幸せな人生をこれから歩むのだろうと思っていました。
でも現実は違いました。
兄はあっけなく亡くなりました。まだ40代でした。
僕はこの体験により、「人はいつ死んでもおかしくない」ということを
学びました。
今までだって、毎日交通事故や戦争で人が亡くなっていることを
ニュースで知っていましたし、祖父、祖母が亡くなった体験もしました。
それなのに僕は「人はいつ死んでもおかしくない」という悟りに
辿り着けていませんでした。
戦争はどこか他人事のようでしたし、祖父祖母は寿命を全うして
亡くなったのだという思いから、自然な死であり、
自分も歳を取ったら死ぬのだろう程度の認識でした。
自分は寿命を全うできると勘違いをしていたのです。
しかし、義兄はまだ40代、死ぬには早すぎるし、結婚したばかりで
人生これからという所で亡くなったのです。
死ぬには早すぎる人が目の前で棺桶の中に入っていて、
焼却されて消えていきました。
僕はこの体験をして漸く

「人はいつ死ぬかわからない、死は自分でコントロール
できるものではない」

という悟りを得ました。
僕が自分の人生について真剣に考えるようになったのは
この時からです。
明日は当然のようにやってくるという自惚れを改めました。
そして、人生と幸福について考え、本を読み渡り、
アドラー心理学へと辿り着きました。
そして、自分の過去の体験からくる傾向性や選び取っているライフスタイルを意識化して、その問題点を考え、改めるようになりました。

昔の僕は非常に怒りっぽかったです。
理不尽や思いやりのないことが大嫌いで、曲がったことを指摘することで
イジメにあったこともあります。理不尽な会社の上司にも噛みつきました。
下衆な笑い話、他人を嘲笑して偉くなったと勘違いしている醜い人達、
利益のために戦争を起こす人達。思いやりのない人。
それらに対する怒りや軽蔑が常に渦巻き、落ち着きのない人間でした。
そして他人について幻滅していた。
僕は自分の美学については自信がありましたが、自分の美学にそぐわない人達をバカにして軽蔑していました。
ニヒリズムに侵された一匹狼のようでした。
そんな価値観ですから、心に平穏なんてありません。
醜い世界から自分を救ってくれたのは、世界の美しさを伝えてくれる
本や物語、ゲーム、音楽、生物図鑑、鉱物図鑑でした。
なので、人と関わり合うより、本を読んでいることが多かったですし、
心を入れ替えた今でもそれはあまり変わってはいません。
しかし、アドラー心理学を学んで、怒り等の感情とはなにか、弱さとは、
トラウマとはなにか、幸福とはなにか、人生は競争ではない、課題の分離をすることなどを学ぶことで、世界の意味付けそのものを変えたので、
以前より幸福度も増しましたし、物理的な行動様式そのものはあまり変わってはいませんが、考え方が変わったため、同じことをするにしてもその意味合いが変わってきました。
今の僕は以前よりずっと心が穏やかで、怒りについてもだいぶ制御がきくというか、怒りを作り出さない習慣がついてきました。
僕が今まで軽蔑してきた人達の人生や心情を想像し、その奥に弱さ、
脆さがあることを想像するようになって、
人は自分を含めて全ての人が完璧ではない、完璧な人など一人も居ないという他人のありのままを尊重する価値観を得ました。
そして自分が自分の美学に自惚れていたことも自覚しました。
そうすると怒りの感情が沸かなくなったのです。

悪人を作り出して、敵を自分で作っていたライフスタイルを捨てて、
悪人など誰も居ない、誰も敵ではないというライフスタイルを選び直すことで、僕自身の世界の在りようが変わり、僕自身が平穏に幸福になりました

僕は過去の体験からくる、「世界は醜いもの」という価値観を持つことは
自分にとって為にならないと思い、勇気を持って考え方を変えました。
「人としてより美しく、自分に誇れる人生を歩みたい、
ニヒリズムに侵されて絶望して死にたくない、
世界は美しいものだと思って死にたい」
僕は義兄の死によって死を身近に感じ、それによって人生を真剣に考え、
「どうしたいのか?」を考えることで、トラウマが作り出す傾向性に
逆らうライフスタイルを選び直すことに成功しました。
僕はこうしてアドラーに人生を救われました。

今の僕は基本的にアドラー心理学の考え方をベースにしていますが、
僕がそこからさらに考えを進めて得たものは

自分の「死」をもっと身近に意識するべき

ということです。

僕が何度も記事で「自分の死」についてしつこく書き連ねるのは、
死の概念を前にすると、人は自分が人生の嘘に逃げ込んでいる事を
真剣に直視せざるを得ない
からです。
明日が当然にやってくると思って油断していると
ちゃんとした人生を歩もうという気概が湧いてこない、
トラウマが生み出す傾向性に従ったその場しのぎな生き方を
選んでしまいがちなのです。
アドラーは勇気を持てれば変われると説きましたが、
その勇気を持つこと自体が非常に難しいため、変われる人が
そう多くないのが実情だろうと思います。

自分が傾向性という坂道を転がって奈落の底に向かっていること
自覚しながら、
「まだ大丈夫、頑張れば逆転ホームランで幸せになれる」と
勘違いをしている。

でも僕の義兄が亡くなったように
人間死ぬときは簡単に淡々と死んでいくのです。
天災でも人災でもです。
ただ運が悪かったからという理不尽なことで簡単に死んでいく
無機質な世界がこの世界の本質です。

僕は人が変わる勇気を持つためには
「自分の死」
という究極の概念、劇薬を使わないと難しいのではないかと思います。
誰しもが自分の死について考えたときは真顔になるはずです。
それぐらいの劇薬でありながら、前向きな自分の死を
シミュレートするというのは簡単で、副作用もありません。
自殺を考えてしまうような人は後ろ向きな死を考えて
自暴自棄になってしまう可能性があるのでそういう時は
死について考えることはお勧めしません。
死について考えることの本来の目的は
自分の生を改める勇気を持つこと、誇りある人生を取り戻すことです。
死は逃げ込む場所ではありません、迎え入れるものです。

前にも書きましたが
「人生は死を肯定的に受け入れられるようになるための準備期間」
だと思います。
そして人生は選択の連続であり、その選択の積み重ねによって、
自分の人生が死を受け入れるような誇り高さを得られるかが
変わるのです。
人生に逆転ホームランはありません。
誇りある選択をコツコツと積み上げていくものです。
そして人はいつ死ぬかわからない。
だから今この瞬間から変わらないと手遅れになる可能性がある。
メメント・モリの概念はそういう意味で非常に重要な
役割を果たしています。

アドラーの説く「生」とメメント・モリの説く「死」が
一体となることで人生はより良いものになっていくと思います。

ですが、肩肘張らずに人生を楽しむことも忘れないでおきましょう。
我々は修行僧ではありません。
そこら辺の凡人です。
人生において100点満点を目指す必要はありません。
ベストではなくベターを目指したほうが人生は楽しいと思います。
そこら辺の塩梅も考えて、自分の美学が許す範囲であれば
「ま、いっか」と考えてくよくよせず、
色んなことに興味を持って、いろんな世界を知ったほうが良い。
人として大事な選択を迫られたと思った時だけ、きちんと考えて
行動すればいいだけです。

明るく楽しく健全に


このことさえ守れていれば大抵のことはなにをやっても後悔することはないと思います。
そういう積み重ねができてくると、自然と道に迷っている人を
助ける気になったり、報われないことを怖れずに親切をする習慣が
身につくと思います。
良い循環に乗れている状態です。

尊敬できる大人というのは良い循環を作り出し、自然と周りを幸せにできる人です。
そこに自己犠牲はなく、無意識の習慣でできるようになっている人が
ほとんどです。
なのでその人自身も幸せだし、周りも幸せという理想的な状態が作り上げられます。
そして、その美しい世界に感化されて、周りの人も良い循環を自ら作り出す
一員になっていく。
僕はこういう光景を目にしたときほど「生まれてきてよかった」と思うことはありません。
僕自身もこうありたいと強く願っています。
そんな生き方ができたら、「死」なんてどうということはないですよ。
優れた人間性は「死」をも超越できる。
僕らにはその力がある。
そう考えたら、ワクワクしませんか?
この感覚が僕は好きなのです。

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