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『共感という病』を読みました

以前に読んだ『同調圧力 デモクラシーの社会心理学』を図書館のネット検索で探した時に偶然発見しました。

視覚的な情報をいっさい入れずに字面だけで「あ、読んでみたい」と選んだ本です。

私の想像では、思春期に抱える他人と共感できずに仲間外れにされる人たちを取り巻く環境を研究結果などを引用しながら書かれている本だろうと思っていました。

しかし、全くの見当外れでした。著者の永井陽右ながいようすけさんの簡単な紹介として、「テロ・紛争解決スペシャリスト」と表紙に書いています。

「ん?」と、正直何の本か分からなくなりました。

読んでいくと著者がテロリストの社会復帰支援を行っていることが分かりました。

日本でテロは馴染みのない話ですが、事件の加害者と考えてみると、風当たりが強く、社会復帰はとても難しいです。

以前読んだ本で、加害者本人ではありませんが、加害者家族になった人を取り巻く環境に関する本を読みました。

この本では池袋自動車暴走事故の家族についても書かれていました。インタビューによると、家族から見た加害者本人はとても大人しい人と書かれていたような気がします。少なくとも、報道で聞く本人の印象とは異なります。

多くの人が報道されていることが真実と感じてしまうため、加害者家族は職場や外出に対してすごく気を使います。本人はしていないにも関わらず、どこか加害者と同じように見られてしまいます。この人たちへの共感も自ずとしにくくなります。

しかし、テロリストは加害者とは違って、意図せずの犯罪ではなく、自らその集団に加わって行動しているわけですから、それ以上に共感しにくくなってしまうのかなと思います。
(もちろん、意図的な犯罪もありますが、誤って起こってしまったことでも世間の目は冷たいです)

ここで、共感と一言で言ってもモヤっとするので、より具体的な意味について書きます。共感には2種類あると本書に書かれています。認知的共感と情動的共感です。前者は理性に基づいて、相手の思考・感情を理解するようにもので、後者は自分が相手の立場になって思考や感情を理解することです。

私たちはこれら2つを組み合わせて相手に共感するそうです。

この本の例として、虫を気にせず蹴っ飛ばそうとする人はいるけれども、犬や人間を平然と蹴っ飛ばそうとする人はいないということが書かれています。

ここには犬や人間は自分とって大切な存在だから蹴らない(情動的共感)、蹴っ飛ばすと犯罪になるから(認知的共感)という共感を感じます。しかし、虫には共感を得ずらく、自分に害を与えるものという感情しか芽生えないのかもしれません。

最近、JAL飛行機が海上保安庁の機体と接触し、JALの機体が炎上する事故がありました。この件に対して、メンタリストのDAIGOさんがペットを飛行機上では「大切なご家族をお預かりしています」と言いながらも、荷物扱いをしている上に問題が起こっても責任が起きないことで炎上しています。

この問題もペットに対してどれだけ共感しているかの差で起きている問題だと思います。DAIGOさんも、家族(ペット)を失った人に対して「乗せなければ良かった」と文句を言っている人たちは理解できないと言っています。

ペットが家族の一員だからこそ、自分の親、子どもが亡くなったように悲しみ、それに対して「乗せなければ良かった」と言われることはキレても当然だと私は思います。

別の観点から見ると、本書では

気に入らない相手をひたすら叩いたりして連帯していくことは、何かしらの課題を解決することができたとしても、ほぼ間違いなく対立や分断を招きます。

P50

と書かれています。この「気に入らない相手」というのが、「自分に共感しない人」を指していると解釈しました。ある場面では共感するけれども、違う面では共感できないと、どんどん、自分を分かってくれる人はいないんだと孤立していくのかな?と何となく孤立するためのメカニズム的なものを感じたりしました。

みんなが間違っていると思っているし、私もそう思うから便乗して叩く。ここでは自分が正義だ、と感じつつも、別の件では正反対の意見を出されることが起きると、「私を分かってくれていると信じていたのに」みたいなことが起きるのではないかと。

著者は活動する内に、被害者よりも加害者に意識を向けることにしました。その背景には加害者を減らすことと共に費用対効果があります。

確かに、と思いました。いくら被害者のケアをしても加害者が何の悪気もなければ解決しません。それに加えて、この活動を続けるためにはどうしても金銭的な面も関わってきます。

加害者を減らすことを私たちの身近で考えてみると、自動車事故があります。誰しもが潜在的な加害者であり、被害者です。こういった事故を減らすために自動車メーカーは自動車の改良を繰り返しています。

社会的公正の実現。内田樹さんとの対談で書かれていたことです。目の前にホームレスがいた時にどういった行動を取るか?ということに関して議論されていました。

内田樹さんの哲学の師匠であるエマニュエル・レヴィナスは社会的公正の実現は政府に全面的に委ねてはいけないと言います。スターリン主義のソ連では、市民1人1人に対して社会正義を実現する責任と権限は無くなり、目の前で困っている人がいたら行政に助けてもらえばいいと国民一人一人が考えるようになる。この状態は、国家が正義や平等を担うという状態であり、一見良さそうに見えますが、市民は道徳的に振る舞う必要が無くなります。問題が起きればそれをやってくれる人に任せればいいとなってしまうからです。

これを読んだ時に、今真っ只中の石川県能登半島地震のことを思いました。

各種報道で現地にいる方々が助け合っている姿に関しては正しいと思いますが、外部から助けに行こうとしている方への風当たりが強いと感じます。

外部からは自衛隊や、しかるべき団体に任せて、募金だけで援助しようというのは、少し違うような気がしています。こういった意見の根拠には、外部から来てくれるのは嬉しいけれども、しかるべき団体の交通の邪魔になるというのがあります。確かに正しいと思います。もし、向かっている途中に再び地震が起きたとしたら、救援に向かった人が助けを求める二次災害、三次災害になる可能性は高いからです。

ですが、全てを団体に任せてしまうのは、「しかるべき所が対処してくれる」と、他人を気遣う心が無くなることにもつながりような気がしています。そんなことはないかもしれませんが、気持ちとして、何か違うなぁ~と。

解決策は簡単に思い浮かぶような話ではありませんが、本書によると葛藤しながら生きている方が真摯な姿勢があると言っています。

合意形成の考え方について。なるほどというものがありました。一般的に、「誰かが正しい意見を言って、それに合わせる」と考えられていますが、そうではない。「みんなが同じくらい不満足な答えを出す」ことが大切だと。

「全員の答えを合わせる」のは無理なことで、誰かの正解に合わせて、説得したり抑え込むことではなくて、みんなが変なことを言って、自分も変だと自覚した所から始める。

「みんな変なんだ、じゃあ、全員の不満がプラマイゼロで収まる所はどこ?」ということを探すのが合意形成の仕方と理解しました。


「共感」と聞くと、自分の身の回りの人間関係に着目しがちだなと思っていましたが、もっと広い目でみるべきだなと感じました。



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