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私たちは社会とどのように関わっていくべきか

自分の名前を残して死にたい

という漠然とした思い。

親から可愛い可愛いと言われて育った私は、幼少期の頃はアイドルかモデルになりたいと思っていた。しかし、成長するとともに自分の顔やスタイルを周りと相対化し始め、自分は大して可愛くないし、スタイルも良くないと思うようになった。

私は自分に自身がなくなっていった。中学校の時には、成績はオール3、ぽっちゃり体型、運動音痴である自分のことが嫌になった。いつも周りと比べ、卑屈になっている自分にも嫌気がさした。それでも、私は常に人と自分とを比べていた。

高校は自宅から通えるところだった。特に夢や目的がなかったため、とりあえず近くの高校で手を打とうと思ったのだ。別に自分の人生が素晴らしいものだとも思えなかった。しかし、高校入学時のテストで何とクラス2位の成績を取った。それまではいつも約200人中100位という普通の成績だったのに。そこから私の人生は大きく変わり始めた。これまではテスト前しか勉強してこなかったが、毎日こつこつと勉強をするようになったのである。それは、「私はできる」と自分に期待を持ち始めたからだ。置かれる環境ってとても大切だと思う。

私の通っていた中学校は評判が良かった。優秀な子達が集まっており、いわゆる問題児と言われる人がほとんどいなかったのだ。しかし、私はあまり評判は良くなかったが、高校の方が好きだったのである。このことを親に話すと、「せっかく良い学校には入れてもキャシー自体がそんなだから何も得ないよね。」と言われた。親の気持ちはわかるが、外側(親や先生)から見た良い学校と内側(生徒)から見た良い学校とは異なることがある。外側から見ると、目立った生徒がおらず、真面目に勉強や部活に励んでいるところが良い学校となるのだろう。内側から見ると、校則が緩く、やりたいことが自由にできる、多少荒れていても楽しく過ごすことができる学校が良いのである。まぁあくまで私の場合だけれど。

話がそれたが、私は高校生の時にやっと自分で自分を認めることができるようになった。周りの人々からは偉そうになった、横柄になった、と言われたが、高校の時の私は、周りに合わせて生きているのではなく、自分の意志を持って生きていた、つまり、偽りの自分ではなく、本来の自分で生きていたのだ。確かに人を見下すようになっていたことは否めないが、とても自分に正直に生きていたと思う。

世間に評価されている良い学校に留まり続けていたら、こんな自分はいなかったと思う。周りと比べ続け、とても卑屈な人間になっていたと思う。

大学からは多少周りに合わせることも必要だと思い、少し落ち着いたが、自分のやりたいことに正直に生きていた。大学では、とても素敵な教授に出逢い、研究の道へ進むことを考えるようになった。そこからまた、自分の名前を残して死にたいという欲が強くなった。論文や本を執筆するだけではなく、ニュースやNHKの番組などでコメンテーターをしたいと思うようになった。自分の生きた証を残したいと思ったのだ。

大学院では、研究の道に進むことは断念してしまったが、今度は社会活動をして社会を変革していきたい、企業やデモ、署名活動、クラウドファンディング、様々なSNSを活用して、社会に訴えかけていきたい。直接的な名前でなくとも、それは後世に残っていくと思ったのだ。

直接的であれ、間接的であれ、私は社会に爪痕を残したいと思ってきた。

私は今後どう生きていくのか

どのようなアクションを起こしていくべきか

私にできることは何か

といつも考えている。こういう話をすると、鼻で笑われることも多い。真面目な話を避けようとする人も多い。でも私たちは本来的には社会的な存在である。この社会の中で社会とどう関わって生きていくのかを一人一人が考えていくことが大切なのではないだろうか。

それは、以前の私のように自分に自身がない人にとっては、「どうせ私なんて…」と思う人には難しいかもしれません。だから、まずはかけがいのない存在である自分自身を認めることから始めてみたらどうだろうか。

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