emptiness0514

愚か者の代表です。よろしくお願いします。

emptiness0514

愚か者の代表です。よろしくお願いします。

最近の記事

天空と大地

お日様はありがたい。またこれなくして生命はない。生命はみな天空を指している。が、生命は同時に大地に根を下ろしている。大地にかかわりのない生命は、存在しない。 天はなんとなく恐るべき存在だが、大地は親しむべき存在に思える。大地はいくら踏んでも叩いても怒らない。生まれるのも大地からで死ねばそこに戻る。天はどうしても仰がなければならないし、自分を引き取ってもくれない。天は遠いが地は近い。 天空は死んだ屍を腐らす。醜い、汚らわしいものにする。が、大地はそんなものをことごとく受け入

    • 宗教という言葉の意味

       宗教という言葉は、英語のreligionの訳語として、明治時代に発明されたものです。西洋文明にとって、religionといえばまずキリスト教。そして、本家にあたるユダヤ教と姉妹宗教にあたるイスラム教のことです。ギリシャ・エジプトの宗教や、ヒンドゥー教、仏教、儒教は、その他大勢(偶像崇拝)の扱いです。   江戸時代、religionにあたる言葉は「宗門」でした。具体的には、天台宗、真言宗等、幕府が公認した仏教の宗派を指します。キリスト教は「切支丹(きりしたん)」で邪宗の扱

      • 仏教の衰退と今

        仏教はインド宗教史の中で特異な位置を占めています。仏教はインドで生まれたわけですが、母なるインドは仏教を外へ追い出してしまいました。追い出された仏教は実に様々な国に伝播しましたが、その後の歴史も厳しいものでした。中央アジアに伝えられた仏教は7世紀にはほとんど滅んでしまいました。敦煌、西夏などの仏教も9世紀から12世紀頃までに次々と滅び去りました。チベットの仏教は1959年の動乱によって再興不可能なまでに弱ってしまいました。近代の中国では文化大革命によってモンゴル仏教、中国本土

        • 軸の時代と個人的精神救済

          ソクラテス、孔子、イエス、仏陀は、同じような時期に出生しています。これは宗教史にとって重要な出来事と言われています。ドイツの哲学者カール・ヤスパースは、この4人が出た時代を「軸の時代」と名付けました。彼らの思想に共通していることは、個々の人間、つまり自己を問題にしている点です。 「軸の時代」までは、王が国を守るための儀式であるとか、人々がその社会を守るための律法であるとかが宗教の名において求められてきました。今の私たちならば、自己を問題にすることは当然ですが、歴史の中におい

        天空と大地

          味わいある日々

          私は何故だか若い頃から仏教や仏教哲学に興味がある変わり者でした。そんなことに詳しくなっても何の得にもならないのに。実際に今の私は相変わらず生活苦に喘いでいます(笑)。 2年前、知り合いのお母さんが亡くなられ葬儀に参列した時に彼女の家の仏教宗派が浄土真宗だと聞いて、私がこれまで勉強していた仏教が自力や他力という表現は間違っていますが絶対他力の浄土宗や浄土真宗以外に偏っていたことに気付き、遅まきながら浄土宗や浄土真宗の勉強を始めました。 2年経過し、最近の私は浄土真宗の妙好人

          味わいある日々

          自ずから然る(おのずからしかる)

          動物の世界、例えばライオンは人間の批評はもちろん、ライオン以外のあらゆる存在からの批評など一切気にしないで、本能の動くままに行動します。野生動物であるライオンが、鹿の群れを木や岩に隠れていて、そこから突然と鹿の群れに襲いかかるのです。逃げ遅れた鹿はたちまち猛獣の餌食になってしまう。 人間の心から見ると、如何にも残忍至極ですが、ライオンの方から見れば、お腹が空いたということだけです。鹿を殺して楽しもう、面白いから殺してやろうというよりもお腹が空いたから鹿を襲ったということだけ

          自ずから然る(おのずからしかる)

          死ぬことも含め経験ないことが怖いわけ

          経験ないことを経験することほど怖いし不安に思うことはないと思います。なぜなら経験していないことは経験する前には経験後の結果が解らないので人間として不安になるのは当然です。 例えば「死」は経験していない私たちにとって何となく怖いというか不安ですよね。「死」は生きている私たちには生きている限り経験できません。何故なら、「死」とは死ぬことを経験する人間そのものが既に存在しなくなってしまっているわけですから、存在して生きている人間としての私たちには「死」を経験できる機会は永遠にあり

          死ぬことも含め経験ないことが怖いわけ

          善財童子と東海道五十三次(出発地:日本橋)

          善財童子とは華厳経という仏教経典の中に登場する青年です。華厳経とは南都六宗(奈良時代の仏教宗派:華厳宗、法相宗、倶舎宗、三論宗、成実宗、律宗)の1つ華厳宗の基になったお経です。南都とは平安時代に京都の南側の都市であるという意味で名づけられた名称で、華厳宗の大本山は奈良の大仏で有名な東大寺ですね。ついでに言えば興福寺、薬師寺は法相宗の大本山、唐招提寺は律宗の大本山ですね。残念ながら現在、倶舎宗、三論宗、成実宗のお寺は残っていません。 善財童子は「仏とは何か」「生きる苦しみはど

          善財童子と東海道五十三次(出発地:日本橋)

          対立の世界

          私たちが生きているこの世は対立の世界であると言われています。幸福と不幸もそうです。幸福という言葉は不幸という言葉があるから存在するし、同時に不幸という言葉は幸福という言葉があるから存在できる。対立の世界であると同時に互いの存在を支え合っている仲間と言えるかもしれません。 対立の世界に居るから不幸を感じ、不幸なところからどうしても抜け出したいと思うのが人間です。そう出来ている世の中から出たいということは、そう出来ているものを棄てるということでなくてはならない。棄てるということ

          対立の世界

          地獄の真ん中で気付く極楽

          地獄の真ん中にいて始めて極楽の有難さが感じられると言われれば、普通に誰でも納得するでしょうが、極楽にいて始めて地獄の味が分かると言ったら、誰がそれに同意するでしょうか? しかし事実は、極楽などにいたら、何の変化もなく、朝から晩まで単調な幸せな生活を送らなければならない。 果たして、人間はそれに堪えられるだろうか?極楽を味わえるだろうか? Ennui(アンニュイ)で死んでしまうかもしれない。私たちはここで始めて人間らしく地獄に同居していることの意味に気が付くかもしれない。

          地獄の真ん中で気付く極楽

          地震の悲しい摂理

          最近の地震でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りしますと共に被害を受けられている方々の環境が少しでも早く復旧されることを念願しています。 地震は突然やってくる。そうすると樹が倒れる、家が壊れる。土砂崩れが起こる。しかしその地震はこの樹を倒してやろうと思って地震を起こしているのではない。この家を壊してやろうといって地震を起こすのではなくて、地震はただただ地震を起こす。壊れたものは壊れるので壊れたのだ。そこに何ら自分(地震)の意志は入っていない。地震に殺人の意志はない、倒れた

          地震の悲しい摂理

          禅という言葉の説明の一例

          20年以上前のことになりますが、私はある禅寺で某有名な宗教社会学の先生と語らっていました。その先生は私に 「私はかつてスタンフォード大学で『禅とはなにか』というテーマで講演をやったんだが大いに受けたが君はどう思う?」と言われました。講演の内容は 『我々が自分自身を幸福に導くのに2つの方法がある。1つは外の環境を作り変えて行く方法であり、もう1つは内なる自己自身を変えてゆくというやり方である。前の方は西洋に発展した科学的・技術的な方法であり、後の方は東洋、ことに禅によって代表的

          禅という言葉の説明の一例

          甲と乙

          自分の愚かさを自覚しつつも今日はどうしても不愉快になり自分自身の感情を整理できない。確かに不愉快になった原因はあるけれども他人が自分に与えた失礼さ不愉快さを寛容な気持ちで受け入れることができないなんて恥じ入るばかりだ。これは不愉快な事象を与えた他人より自分が一番大切だという自分の愚かな自己本位の気持ちのせいだと思う。相手のことを思う気持ちが足りないからだろう。自分自身の心を整理する意味で以下を書いてみたい。 よく私たちは「甲乙つけがたい」という。よくよく考えてみると「甲」と

          承認(誰かに認められたい)

          例えば、お遊戯が上手にできたお子さんが「よくできましたね~」とほめられる承認です。あるいは、プロ野球の選手がバッターボックスで難しい球をクリーンヒットした時に、それはプロ野球選手として承認されたと思えるでしょう。 ただし、具体的に誰かに褒められることをしなくても、ヒットをうった時に自分自身が嬉しくなる。それは野球というゲームの中で、みんなから承認され得る行為を自分はしているという事が分かっているから嬉しくなるわけですね。その証拠に、もしも野球というゲームが、ヒットを打つと

          承認(誰かに認められたい)

          宗教はなぜ存在するんだろうか?

          かつて問題視されたオウム真理教や今問題視されている旧統一教会等々、私たちは宗教に怪しさや不信感を抱きつつ暮らしている。新興宗教だけではなく、長い歴史を持つキリスト教、イスラム教、仏教も例外ではないように思う。でも、そう言いながらも、相変わらず、宗教は今も生き残り、我々はある程度嫌いながらも、一定程度距離を保ちながらも何となく心の支えとして生活している。   生きるためには食料が必要だ。我々人間はこの地球の自然環境をかなり把握理解している。食べられる動物や植物はどこにいる

          宗教はなぜ存在するんだろうか?

          幸福×不幸

          何度も自殺を考えた。駅のホームから飛び込もうか、睡眠薬で死ねないか、今住んでいるアパートから飛び降りようか、ただ、たかだか3階からの飛び降りでは中途半端で死ねないかもしれない。結局のところ僕は死ぬ勇気さえないのだと思った。なんともだらしない中途半端な人間なんだと気づき改めて自分が嫌になった。 今日は2024年1月1日。一人での正月を迎えるのはこれで2度目だ。目覚めていつものように狭いベランダに出て空を眺めた。真っ青な空が奇麗だった。昨日の大晦日の朝は雨だったのが嘘のようだ。