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仏教の衰退と今

仏教はインド宗教史の中で特異な位置を占めています。仏教はインドで生まれたわけですが、母なるインドは仏教を外へ追い出してしまいました。追い出された仏教は実に様々な国に伝播しましたが、その後の歴史も厳しいものでした。中央アジアに伝えられた仏教は7世紀にはほとんど滅んでしまいました。敦煌、西夏などの仏教も9世紀から12世紀頃までに次々と滅び去りました。チベットの仏教は1959年の動乱によって再興不可能なまでに弱ってしまいました。近代の中国では文化大革命によってモンゴル仏教、中国本土に残っていた仏教の伝統もかなりの弾圧を受けました。カンボジアの仏教はポル・ポトの侵攻にあった。日本社会における仏教の役割も近代以降、急速に小さなものになってきています。なぜなのでしょうか?

近代の人間の特質は、財(富)を肯定的にとらえます。これに背を向けた個人精神の救済にのみ偏った仏教思想は近代思想の仲間にはなれなかった。近代思想は財に対してこれをどう蓄積するか、管理するかという問題に取り組み、現実世界での豊かさを追求してきました。徳川幕府以降の近代日本において、仏教は生産活動、財の蓄積といった問題に関して、ガイドラインになるような思想形態を生み出すことができなかったわけです。

これは、仏教が求めてきた宗教的財(個々人の精神の充実満足)と近代世界が求めてきたものとがずれてきたためだと思われます。仏教思想(空を中心とした思想)は確かに富の蓄積とは常に反対の方向に走っていました。

西洋的な歴史観では、世界観があり目的があって手段を選ぶ、という形の行為を中心に考え、さらに時間が一方向の目的に向かって流れて行く、と考えられているように思います。こういった方向の時間を軸に行為を見るときには、歴史を過去から現在そして未来へという流れとして見ることになるでしょう。

このような歴史観にあっては、我々の目的を達するための手段は、効率的、あるいは、合理的、にならざるを得ません。所謂、グローバル化現象もまさに効率の良さを求める方向に動いています。ただこういったあり方が本当に人間個々を幸せにするのかどうかは分かりません。目的を設定すれば、それに至る手段として効率よく迅速にその成果の多い方法を選んでくれる。確かに素晴らしいことです。

ですが、近現代の多くの思想家たちが、人間の行為がこのまま効率を求め続け、しかも何の自己制限もなく進んで行ったときに、いったい人間がどこに行き着くか、という不安について語り始めています。
これからの仏教は現実世界に対して頑なに逆方向に走ることに拘らず、現実社会に少しでも溶け込んで何らかの役割を勤める方向に進まなければならないと私は思います。形だけの座禅をして仏教文化を味わったと勘違いした満足をしている場合ではないのです。


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