幸福×不幸

何度も自殺を考えた。駅のホームから飛び込もうか、睡眠薬で死ねないか、今住んでいるアパートから飛び降りようか、ただ、たかだか3階からの飛び降りでは中途半端で死ねないかもしれない。結局のところ僕は死ぬ勇気さえないのだと思った。なんともだらしない中途半端な人間なんだと気づき改めて自分が嫌になった。

今日は2024年1月1日。一人での正月を迎えるのはこれで2度目だ。目覚めていつものように狭いベランダに出て空を眺めた。真っ青な空が奇麗だった。昨日の大晦日の朝は雨だったのが嘘のようだ。なんだかそれだけでも嬉しい自分がいる。なんて俺はバカなんだろう。空模様だけで喜ぶなんて。

ところで僕が今生きていることに何らかの意味や価値はあるんだろうか。この世の中の一員として何らかの役割を果たしてきたのだろうか。いや、何の役割も果たせていない。それどころか俺に関わってくれた人達に迷惑のかけっぱなしの人生だと言わざるを得ない。やはり死んでこの世からオサラバするしかないと思う。僕が生きていることに意味や価値がないんだから。

人は普通、生きている時間が死で途切れ、その後別の時間、それこそ「あの世」の時間が続いていくように思いやすい。が、それは違うように思う。生の時間と死の時間は並行に流れているのではないか。命の終わりは生の終わりだけではなく、生と死の終わりだと思う。この命を称して仏教では「生死(しょうじ)」というようだ。言うなら、死は生にかかる重力だということになる。同時に死は生に対して重さを与えうる。底の抜けたバケツに水が入らず、返済期限がない借金が借金でないように、死なない生は生ではない。「生きている」という言葉の意味が理解できるのは、私たちが死ぬからだ。だとすると、この生の充実こそ死の充実なのかもしれない。「生」という言葉は「死」という言葉があって始めて言葉として存在できる。「死」という言葉も「生」という言葉があって始めて存在できる。

「幸福」と「不幸」も同様だ。「不幸」という言葉はそれ自体単独では存在し得ないし意味がない。「幸福」という言葉があるから「不幸」という言葉が存在するわけだ。

さあ、僕は死ぬ勇気さえない愚かな人間だからこれまでの後悔を抱えつつ「幸福×不幸」
な人生を今少し味わってみようか。

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