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正欲の考察|多様性とマイノリティの見方と登場人物の苦しみ ※一部ネタバレ有り

今回は朝井リョウ先生の『正欲』についての考察。

考察記事の性質上、どうしてもネタバレになる部分も発生することがあるのでご理解下さい。

正欲のあらすじ

登場人物が持つ「性欲」についてマジョリティとは異なる性質を持ちながら苦しむ登場人物たち。作中でも一般的とされる「異性への興奮」と更に昨今はマイノリティとして受け入れが始まってるLGBTQの存在。しかし中にはそんなものでは括れない「異常者」と世間で認知されてしまうような性欲が存在する。彼らの性欲の源は「水」だった。水が噴射される瞬間や破裂する水の形状などに興奮を覚えて性欲の発散に至るという特殊性癖。マイノリティとしても認知されず人に理解してもらうことを諦めた登場人物の苦難。そして認められない現実から逸れた見方が為されて逮捕という最悪の状況に至ってしまう。なぜ彼らは逮捕されたのか。そして逮捕された本当の理由を語れなかったのか。僕たちに「マイノリティの受け入れの意味」「視野の狭さ」を教えてくれる作品。

多様性を狭い範囲でまとめている

作品の根幹にある多様性。人は多くの考えがあり、性質がある。それを一概に取りまとめることは難しく、まして男女のように「二つに分かれる」話でもない。

この事は最近になって急速にLGBTQの受け入れ姿勢が世に広まってきている。よって以前に増して「人の寛容度」「性に対しての理解」は深まっているように見えた。

しかしこの作品に登場する人物は違う。興奮の対象が「水」なのだ。
「水なんてなんで?」
その疑問こそが対象となる人の心を苦しめる。多様性を声高に叫んでいる人ですら「それは別物、異常者」と括って「変人扱い」を決め込んでしまうのだ。

確かに一昔前なら今で言うところのLGBTQの方々もまた「異常者」として蔑まれた現実がある。これは誰が何と言おうと事実としてあった。差別といっても過言ではない状況もある。現実にキリスト教もイスラム教もヒンドゥー教も基本的には同性愛を禁じ手として考えている。この現実は「今はそんな風に思っていないよ」と言ったところで変えられない。そして受け入れが始まって間もない現状にある中で人の心理がそこまで大回転をするとは思えない。

実際にはLGBTQですら「完全なる受け入れ」として心の底から「あるよね、そういうことも」と言える状況には無いのではないか。どこかに違和感を持つ人が大勢いるのは恐らく誰もが感じているところだと思う。ただ状況は良化していてこのまま「受け入れる」「そういうもの」と当然のように突き進めば世の中の認識は「受容体勢」から「あって当然」という状況にまで至るはず。

性に対しての多様性は非常にナイーブな問題であり、そもそもが語られる機会の少ないもの。これについて本作の終幕地点で描かれる「本当は誰しもが不安なのではないか」という着地点でハッと気付かされる。

「ああ自分は普通で良かった」

そんな瞬間が誰にでもあるのではないかという提唱。実際に人の性交渉を見る機会などあるはずもなく、演出としての動画素材が蔓延る。
「俺は縛られると興奮するだけど」
「私は踏まれると興奮する」
人の性など偏りという混沌とした渦の中に存在するもの。誰もがどこかに「変かもしれない」という不安を抱えている。だから人にちょっと確認することになる。

「これエロくね?」

登場人物の同級生が放った一言。この言葉もまた「そう感じるのはおかしいのか?」と自問の末に不安になって導き出された一言なのだと気付く。

登場人物の苦難

「水」に興奮を覚えるなんて事象は周囲を探っても出てくるものではない。ときには「女が好きじゃないってことは男が好きなので、大丈夫、受け入れる」というスタンスで話が進んでいく。

違うんだと叫びたい、でも叫べない。

そこにあるのは今多様性を受け入れる、マイノリティを受け入れると言っている人の中に発想として入らないマイノリティのなのだ。それはもうマイノリティではなく「存在しては行けない何か」として受け止められる。

言ってみれば人間の中に悪魔が一人混ざっていて、人間の性質は理解するけど悪魔に関してはどうにも混ざりようがない異質なものだろうと考えられている現実。悪魔の中に天使という発想でも構わない。とにかく「別物」と認識されてしまう。

登場人物が抱える「本物のマイノリティの苦悩」は人に言えるものではなく、まして「これからはLGBTQのことをもっとよく知っていきましょう」なんて声高に同意を求められる類ではない。

そう考えると登場人物の苦難と共にマイノリティに対する考えも変わってくる。先に述べた通り、一昔前ならLGBTQはマイノリティにも数えられない、正欲で言うところの「水に興奮」という認識と変わらなかった可能性はある。

「男なのに男が好き」なんて絶対に人には言えない。それだけは無理。

そんな考えのもとで生きる人も今以上に多かったであろう。そしてひた隠しにした結果、その緩んだ糸が別の物と絡まりあって本来とは違う問題に巻き込まれるケースもあったのかもしれない。

本当の自分を伝える場すら用意されていない苦しみは、それが用意されている人からすれば想像できないものなのだと正欲を読んでいると理解できる。

もし自分がそうだったら。

やはり人には伝えずに悶々とした日々を送り続けて、時には「消えてしまいたい」と願うこともありそうな気がした。

正欲を読んだら変わる

はっきり言ってしまえば受け入れの姿勢云々はさておき「まず知ること」が全てになる。実際に知った上で「それは僕は、私は受け入れられない」ってこともあると思う。それはある意味で仕方のないことではないか。

ある作品を好きな人もいれば嫌いな人もいる。それは避けられない。ただ知ることで「そんなの人間じゃない」という発想は消え去る。嫌いだとしても「いるよね」という認知には変わる。

これこそ多様性を引き受ける最初の一段目になるのではないか。そして皆が一様に今ある本当のマイノリティの存在を知ることで「受け入れよう」という人も広がっていく。広がっていくのだから「受け入れられない」と思っていた人も周囲の環境が変わることで「まぁいいか」と容易に受け入れる土台が出来るもの。

正欲に登場した「水に性的な興奮を覚える人たち」のお陰で、読んだ人は「そういう人がいるのだ」と知るに至った。だとすれば水どころか「太陽光」「蛇」「川の音」「炎」なんだって性的な発想として取り入れる人間がいるのかもしれないと思えるだろう。

ただこれを法的に何でも受け入れるのが良しという訳ではないと僕は思う。やはり抵抗出来ない子供を中心に性的な感情を抱く人間がいる「だから受け入れよう」とはならない。女性を手篭めにして乱暴に犯すことでしか興奮を覚えないからといって「じゃあそれを良しとしましょう」とはならないのだ。

この辺りの一線をしっかりと考えた上で社会を維持するために「やはり受け入れ困難」となるような正欲も存在することは重々承知した上で、多くの人間がいるのだから、多くの価値観のもと、多くの欲の形があるのだと知っておく。これだけでも大きな前進になるのではないだろうか。

『正欲』はそんなことを教えてくれた。

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最後まで読んでいただきありがとうございました。



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