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戦車師団は地獄のように走るーー米「第二機甲師団」アフリカからエルベ川まで

 さて、皆様パットン将軍をご存知でしょうか? 
 そう、あのアメリカの戦車将軍です。
 では、パットン将軍が率いた部隊がどんなもかはご存知でしょうか?
 実はその1つに、アフリカ、イタリア、ヨーロッパを共にした師団がいました。

 どうもミリタリーサークル
 『徒華新書』です。
 本日のミリしら(ミリタリー実は知らない話)です。
 @adabanasinsyo

 本日は久保智樹がお送りします。
 @adabana_kubo 

 個人的に「戦記」が好きです。 
 現場の目から見たリアルな体験。
 幼少期の自分は海防艦「占守」の乗組員の戦記を読んだ時の冒険小説を読んでいるかのような気持ちを今でも鮮明に覚えています。
 まぁ海軍のオタクにも、戦記のオタクにもならなかったのですが・・・
 
 まぁそんな訳で部隊の活躍に注目するのが好きです。
 なので好きなことを書こうと思います。

 本日はアメリカ陸軍の”2d Armored-Division”についてです。
 
 なぜ1stでなく2dなのか?
 それはこの「第二機甲師団」がトーチ作戦、ハスキー作戦、ノルマンディーの戦い、バルジの戦い、エルベ川とアメリカのある所に常にいたからです。
 この部隊の動きを追うだけで第二次世界大戦のアメリカの戦いを追えるのではと思うほどです。

 またこの師団は映画『フューリー』では主人公の所属部隊であり、ドラマ『バンドオブブラザーズ』にも登場しています。

 加えて、この部隊こそが長らく『パットン大戦車軍団』の中核でもあったのです。
 パットン将軍もそのキャリアの中でこの第2機甲師団の師団長を務めているなど大変ゆかりのある部隊でもあります。

 
 そんな訳で本日はそんな実は知らない第二機甲師団のお話をいたします。

 本日のお品書きです。


アメリカの機甲師団創設

 1940年6月にナチスドイツの「電撃戦」でフランスが降伏しました。
 フランスという国家と機甲戦力に対する懐疑論は吹っ飛びました。
 
 時は1940年7月15日アメリカは3つの機甲師団を創設しました。
 アメリカの最初の戦車の集中運用を目指した兵団です。
 第2機甲師団はそのひとつでした。

 

 HELL ON WHEELS(地獄のように)
 アメリカ第二機甲師団の愛称です。

 この師団はその名を体現する働きをします。
 それはアフリカで、イタリアで、そしてヨーロッパで果たされます。
 
 第2機甲師団の陣容を簡単に見てみます。

 


 アメリカの機甲師団は中戦車のM4シャーマンと軽戦車のM5スチュアートを装備していました。また歩兵連隊はハーフトラックに乗り戦車部隊に追従できる部隊として編成されました。

 次の章からは第二次世界大戦における第二機甲師団の活躍を見ていきます。
 もし第二次世界大戦の大枠の流れが知りたい場合にはこちらの記事をお読みください。


地中海を駆ける戦車師団

 第二機甲師団の初陣は1942年11月の「トーチ作戦」でした。
 アメリカのヨーロッパにおける初の反抗作戦です。
 
 第2機甲師団は西部攻撃部隊に加わりアフリカの地を踏みました。
 西部攻撃部隊の指揮を執ったのはパットン将軍。
 第2機甲師団の指揮官はアーネスト・ハーモン将軍でした。

 第二機甲師団の上陸地点は一番前線から遠い西部であり、アフリカ戦線では前線に投入されることはなく、もっぱら後方警備と訓練に努めました。

 これは地理的要因だけでなく、第1機甲師団がカセリーヌ峠の戦いで大損害を受けたことで、第二機甲師団の保有装備が急遽第1機甲師団の補充にあてられたことも背景にありました。

 第2機甲師団は後方待機でしたが、連合国の攻撃は続き激戦の末に1943年5月7日にドイツアフリカ軍団を壊滅させることに成功しました。

 連合国はアフリカを制し、次なる目標をイタリアに定めます。
 シチリア島に対する上陸作戦「ハスキー作戦」が決定します。

 パットン将軍の第7軍の指揮下で第2機甲師団はこのハスキー作戦に投入されます。

 1943年7月10日、連合国はイタリア南部のシチリア島の上陸を開始します。
 連合国の空爆と艦砲射撃に援護された部隊が次々とシチリア島に上陸を開始します。

 アメリカ第7軍の目標は「イエローライン」として設定された橋頭堡を確保し、「ブルーライン」に前進しイギリス第8軍のメッシーナ進撃の側面援護にありました。

  第2機甲師団の第一波はジェラ(Gela)の第1師団を支援するために揚陸が開始されます。第18装甲偵察大隊を先頭に、第41機械化歩兵連隊の2個大隊、7月11日には第67機甲連隊の2個小隊10両のM4戦車が揚陸されます。しかしながら期待の戦車は砂浜にスタックし戦闘にすぐには加われませんでした。

 すかさず枢軸軍の守備隊の砲兵射撃と空爆が開始され第1歩兵師団の重装備や第2機甲師団の第二波上陸は思うように進みませんでした。

 重装備を十数問の砲兵のみしか持たない第1師団の前面にイタリアのリヴォルノ師団とドイツのヘルマンゲーリング師団が戦車を伴って攻撃に出たのはそんな状況の中でした。第1師団と第1機甲師団はバズーカや迫撃砲とたった一門の対戦車砲で防御し、どうにか橋頭堡の維持に努めます。海軍の艦砲は誤射を恐れ発砲できなかったことで防御は極めて難しい状況でしたが、これらの部隊は死守に成功します。 そして死守した橋頭堡に続々とアメリカ軍は続々と上陸します。第2機甲師団の第二波以降は第3師団の確保したリカタの港に上陸していきました。

 各部隊の揚陸が完了し、突出した敵部隊を艦砲射撃で攻撃したことを皮切りにアメリカ軍は反撃に転じイエローライン、ブルーラインへと進撃を開始します。第2機甲師団は第3歩兵師団の援護をしながら前線を押し上げていきました。
 
 順調に進撃したアメリカ軍に対してイギリス軍は予想外に苦戦します。
 カタニア(Catania)前面でドイツの精鋭の降下猟兵師団の防御の前に進撃が止まります。

 戦略目標であるメッシーナ攻略がイギリス軍単独ではめどが立たないことを受けてパットン将軍はアメリカ第7軍を大胆に機動させパレルモ―メッシーナへの攻撃を決めます。

 パットン将軍は自身の第7軍を第2軍団と仮設軍団の2つに分け島の西部を一気に制圧する計画を立てました。第2機甲師団は仮説軍団に配備されパレルモを目指しました。
 
 幸いにして精鋭のドイツ軍部隊はイギリス軍の攻撃の防止のため引き抜かれ弱体なイタリア軍のみであったため、攻勢発起から72時間で島の西部全域を制圧しました。

 そしてパットンの第7軍は短期間にパレルモ以西を制圧すると、シチリア北側の道路を猛烈な勢いで進撃しイギリス第8軍よりも先にメッシーナをも制圧しました。

 第2機甲師団はパットン将軍の期待に応え、第3師団をよく援護し、そしてパレルモに突入し連合国のシチリア戦役においてアメリカが投入した唯一の機甲師団としてその役割を果たしました。

ノルマンディーを突破せよ

かつて祖国の為に死ぬことで戦争に勝ったロクデナシなどいなかった。他の貧相でマヌケなロクデナシどもを祖国の為に死なせてやる事によってこそ、諸君は勝利を掴むのである。 ーージョージ・S・パットン

 『史上最大の作戦』
 1944年6月6日ノルマンディー上陸が始まりました。 
 
 1943年にイタリアで活躍した第2機甲師団はこの日イギリスにいました。

 第2機甲師団は作戦開始の三日目にフランスに上陸します。
 上陸地点は激戦地オマハビーチ。

 第2機甲師団は第5軍団の指揮下で、第28歩兵師団や第101空挺師団とともにコタンタン半島の制圧を任務として、第17SS装甲師団と死闘を演じた末に勝利を手にしました。
 ドラマ『バンドオブブラザーズ』でもこのシーンは描かれています。

 コタンタン半島の制圧は成功し第2機甲師団は成功を収めたものの戦域の東を担当するイギリス第2軍はヒトラーユーゲントSS装甲師団の激しい抵抗によって作戦目標のカーン市を制圧できておらず全てが計画通りというわけではありませんでした。

 ノルマンディー上陸作戦によってヨーロッパに橋頭保を手にした連合国軍は、敵が東部のカーン市に集結していることを利用して、逆に戦線の西側から大規模な突破する「コブラ作戦」を立案します。

 コブラ作戦には当然歴戦の第2機甲師団も投入されました。
 

 1944年7月24日コブラ作戦は発動されます。

 第2機甲師団は第7軍団の下で突破を開始します。
 立ちはだかるはドイツの戦車部隊の最精鋭「装甲教導師団」。
 
 しかしながらコブラ作戦の準備段階として重爆撃機によって大規模な爆撃に晒されていた敵軍に対して第2機甲師団を含む第7軍は見事に突破を成功させました。

 それ以上に特筆すべきは第8軍団の第4機甲師団のアブランシュ(Avranches)突破でした。この地点を橋頭堡として連合国はドイツ軍の防衛線を一気に食い破る機会を得るのです。
 
 コブラ作戦進行中の8月1日に連合国軍は指揮系統の整理を行います。
 これまでアメリカ軍部隊は全て第1軍のブラッドレー将軍の下に置かれていましたが、増大する部隊に対して管理が限界を迎えたことで「第12軍集団司令部」が設置されブラッドレー将軍はこの指揮を取ります。そして各部隊は第1軍と第3軍に分割します。
 
 第1軍はホッジス将軍が指揮を引き継ぎました。第3軍はハスキー作戦でアメリカ軍を指揮したパットン将軍が率いました。

 第3軍はブルターニュ半島を制圧するために西へ、第1軍はさらなる占領地の拡大のために東に進撃します。

 第2機甲師団は第1軍の下で突破を継続し東へ東へと進撃します。
  
 その最中、第1軍に危機が訪れます。

 第30歩兵師団がモルタン(Mortain)前面で強力なドイツの装甲師団から攻撃を受けたのです。

 ドイツ軍は8月6日アメリカ軍の全線で伸び切った側面を叩き突出した部隊を包囲する「リュッティヒ作戦」を発動したのです。その戦力は精鋭の第1・第2SS師団と東部戦線帰りの第116装甲師団であり、ドイツ軍の最後の決戦兵力でありヒトラー総統が状況打開のために遂にこの部隊を動かすことを決めたのです。

 第30歩兵師団はモルタン郊外の高地を活用して質量ともに勝るドイツ機甲師団の突破をどうにか阻止しようとしましたが、8月8日にはモルタンを失陥します。

 第1軍司令官ホッジス将軍は目下戦果拡張中であった第2機甲師団を呼び戻し、第30歩兵師団の援護に差し向けます。

 第30歩兵師団が2日間にわたってモルタンで抵抗した時間を第1軍は無駄にはしませんでした。付近の航空機をかき集めドイツ軍に対して攻撃をするとともに第2機甲師団や第35歩兵師団といった増援が間に合い、ドイツ軍乾坤一擲のリュッティヒ作戦は頓挫しました。

 それどころかドイツ軍は貴重な戦略予備をモルタンにつぎ込んだことで、それまでカーンに展開していたイギリス・カナダの部隊の反抗作戦を阻止する兵力の不足を招き、ファレーズ近郊でドイツ第7軍と第5装甲軍が丸ごと包囲される状況を生み出しました。

 このファレーズ包囲網は完全に閉じられる前にドイツ軍は軍団長や師団長までが武器を取った決死の脱出行動に出たことで重装備を多数失いながらも、貴重なベテラン兵達が脱出することになり、ドイツ軍にまだもうひと暴れする余力を残すこととなりました。

 第2機甲師団はノルマンディー上陸から、コタンタン半島では第17師団、コブラ作戦では装甲教導師団、モルタンの戦いでは第1・第2SS師団といったドイツの精鋭師団と衝突しながらも悉くを退け、連合国のフランス攻略において重要な役割を果たしたことは間違いないでしょう。

バルジを撃砕せよ


 ノルマンディーに上陸した連合国は8月中にファレーズにてドイツ軍の主力を包囲し甚大な被害を与えたのみならず、余勢をかってフランスを一気に開放してドイツ国境に迫りました。

 連合国軍は快進撃によって補給状況が悪化したことや、1944年中に戦争を終わらせることを目標にオランダを一気に開放するマーケットガーデン作戦に失敗したことでドイツ国境のジークフリート線付近まで進出した段階で攻勢限界を迎えます。

 第2機甲師団もこの時期の快進撃に加わっていました。
 この時期に特筆すべきはアーヘンの戦いでしょう。

 アーヘン。歴代の神聖ローマ皇帝が戴冠式を行うドイツの古地。
 その地を巡る戦いに第2機甲師団も加わっていました。

 アーヘンの攻略は10月7日に始まりました。第1歩兵師団、第30歩兵師団を主力として両翼からアーヘンを包囲する形で行われました。
 第2機甲師団はその側面を守るために前進しドイツのジークフリート線を超えプフェンドルフ(Puffendorf)まで前進しました。

 第2機甲師団は快進撃の一方で第30歩兵師団はアーヘンの戦いで損害を受けたためにこの部隊の再編の間待機することとなりました。

 その間も第1軍はヒュルトゲンの森での戦いや、第3軍のアルザスロレーヌ解放など各方面で戦果が拡張されました。
 連合国はドイツの命運は時間の問題と考えていました。

 しかしドイツは最後の反撃に出ます。
 ヒトラーの大博打「ラインの守り作戦」です。
 別名「バルジの戦い」。

 12月16日ドイツ軍の装甲部隊が大挙してルクセンブルク方面に攻撃を仕掛けた。
 正面に展開する歩兵師団は瞬く間に殲滅され連合国は恐慌状態に陥った。

 ドイツ軍の狙いはオランダ、アントウェルペン。
 オランダに展開する連合国を丸ごと包囲する計画でした。

 バルジの戦いにおいてよく知られる部隊は間違いなく第101空挺師団でしょう。
 彼らは包囲されることを承知でバストーニュの地に赴きドイツ軍の進撃を阻みました。
 これを救出したのはパットン率いる第3軍であることもよく知られた話です。

 では我らが第2機甲師団はどのような働きをしたのか。
 前述の第30歩兵師団の再編の為に第2機甲師団も再編成を行っていた。

 しかし危機的な状況に司令部は動員可能なすべての兵力をかき集めた。
 当然第2機甲師団もその対象であった。
 
 第2機甲師団は第9軍から第7軍に急遽移管された。
 師団は前線に急行しムーズ川前面に迫るドイツ軍を補足します。

 ラインの守り作戦は燃料不足から連合国軍から物資を鹵獲することで作戦を継続するという無茶な前提があったがドイツ軍は各地で抵抗する連合国軍を前にこれに失敗していました。
 
 第2機甲師団が捕捉したのはそんなガス欠のドイツ第2装甲師団でした。
 12月24日、クリスマスイブ、米第2機甲師団は独第2装甲師団に対する攻撃を開始します。ドイツ軍で最も突出した部隊は燃料不足から潰走しました。
 第2機甲師団は僅か1日で80両を超える戦車を撃破します。

 第2装甲師団は装甲教導師団に援護されて撤退していきました。

 第2機甲師団はラインの守りが発動されると後方からその機動力を活かして緊急展開し、すかさず最も北に突出してきていたドイツの装甲師団を撃砕したのでした。これによってオランダを目指すドイツ軍の意図は完全に砕かれたのでした。

終点 エルベ川

 バルジの戦いでドイツ軍の西部戦線における最後の抵抗は撃砕されました。
 戦争の主導権は再び連合国に移ります。

 バルジの戦いで突出したドイツ軍を掃討し反撃の体制を整えたアメリカ軍は1945年2月22日にドイツのジークフリート要塞線を越えて一気にドイツ本国に押し込む「グレネード作戦」を発動します。

 第1軍、第9軍が共同しライン川までの突破を目指しました。
 第2機甲師団は第9軍の一翼を担いました。

 
 機甲師団はライン川まで突進し可能なら橋を確保し、敵を孤立させるために全力で攻撃を開始します。目標はアドルフヒトラー橋。

 師団は橋の数マイル手前まで敵の抵抗を排除して一気に進みました。
 しかしドイツの最後の決死の抵抗を前にして、橋の爆破を許してしまいます。

 第9軍は橋の確保には失敗したもののライン川西岸から脱出できなかった多数のドイツ軍を殲滅する機会を得ます。捕虜だけで3万名にも上りました。

 ライン川という自然の要衝でドイツは最後の抵抗を企図していました。
 アドルフヒトラー橋を含むすべての橋をドイツ軍は爆破して渡河を阻止する構えでした。

 しかし3月7日、第9機甲師団がケルン南方のレマーゲン橋を確保したことでドイツの命運は決まります。
 ドイツ軍はレマーゲン橋の爆破を試みましたが、爆薬の信管の動作不良で完全な破壊に失敗したのです。

 ドイツの最後の抵抗線はいとも簡単に破綻しました。
 
 そしてナチスドイツの西部における抵抗はアメリカ軍がライン川を渡河したことで完全に崩壊することになります。

 ライン川東岸のルール工業地帯はドイツ戦争経済の中枢でした。
 ドイツ軍もヒトラーもこの地で最後の抵抗を試みようと多数の部隊を張り付けます。
 
 しかしアメリカ軍はあえてルールを攻略する必要などなく、ただ包囲することを決定します。

 戦線左翼を第2機甲師団はまたもや全力で走りました。
 そしてもはやそれを阻止する予備などドイツになかったのです。

 4月1日リップシュタットの地にてパットンの第3軍所属の第3機甲師団と合流を果たしたことでルール包囲は完成しました。

 抵抗の無意味さを悟ったドイツ軍は降伏を決めました。
 4月18日ドイツB軍集団司令官モーデル元帥は全軍に降伏を命令し自決しました。

 降伏した部隊は31万人に上り、ドイツの抵抗能力は完全に崩壊しました。
 第2機甲師団の最後の任務はエルベ川への進撃でした。

 もはやナチスドイツに抵抗力はなく、無人の野を行くがような状態だった。
 第2機甲師団の進撃は一日で100マイルの日さえあった。
 4月11日第2機甲師団はエルベ川に到達しました。
 
 対岸にはもはやドイツ軍はいなかった。
 そこにいたのはソ連第一ウクライナ戦線軍であった。

 アメリカ軍の戦った西部戦線とソ連軍の戦った東部戦線はエルベの地にて合流を果たしたのです。 
 
  この1週間後ベルリンは陥落し、第二次世界大戦は終結しました。


おわりにかえて

 連合国の勝利はその総合力によるところが大きいでしょう。
 物量に勝る連合国。

 しかし、極言すれば戦争とはどんなに物量があったとしても最末端には一人一人の兵士がいるのです。

 それはどんなに物量に優れる連合国でも違いはありません。

 第2機甲師団”Hell on Wheels”

 この部隊は連合国の豊富な物量によってドイツ軍と違い常にほぼ定数の戦車が充足され、手厚い航空支援の下で作戦を進めました。

 しかし、彼らがシチリア、ノルマンディー、バルジ、ルールで見せた活躍と献身は不朽のものでしょう。


参考文献

2d Armored Division 
https://history.army.mil/html/forcestruc/cbtchron/cc/002ad.htm

“AGF Study No. 8: Reorganization of Ground Troops for Combat” III.
SECOND PERIOD: THE AGE OF ECONOMY OCTOBER 1942 - OCTOBER 1943 
7.THE ARMORED DIVISION
https://history.army.mil/books/agf/AGF08/ch14.htm

Sicily 1943
https://history.army.mil/brochures/72-16/72-16.htm

Northern France
https://history.army.mil/brochures/norfran/norfran.htm

Rhineland
https://history.army.mil/brochures/rhineland/rhineland.htm

“U.S. Army in World War II series”

Sicily and the Surrender of Italy
https://history.army.mil/html/books/006/6-2-1/CMH_Pub_6-2-1.pdf

Cross Channel Attack
https://history.army.mil/html/books/007/7-4-1/CMH_Pub_7-4-1.pdf

Breakout and Pursuit
https://history.army.mil/html/books/007/7-5-1/CMH_Pub_7-5-1_fixed.pdf

The Lorraine Campaign
https://history.army.mil/html/books/007/7-6-1/CMH_Pub_7-6-1.pdf

The Ardennes - Battle of the Bulge
https://history.army.mil/html/books/007/7-8-1/CMH_Pub_7-8-1.pdf

The Last Offensive
https://history.army.mil/html/books/007/7-9-1/CMH_Pub_7-9-1.pdf

Riviera to the Rhine
https://history.army.mil/html/books/007/7-10-1/CMH_Pub_7-10-1.pdf

George S. Patton's Speech to the Third U.S. Army
https://web.archive.org/web/20060616031308/http://www.knox.army.mil/museum/pattonsp.htm


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