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私よりほんのちょっぴり好きでいて、半分こよりは2グラム多く


令和の時代になって数年経っても、ネットのコラムや雑誌の特集のタイトルに「愛され女子」の言葉は元気に躍っている。

「愛されるより愛したい」なんて言葉もあるけれど、それが目を惹くのはやっぱり人間、できるなら「愛されたい」方が多いからなんだろう。



とりわけ恋愛においては、誰しもが「自分は恋人に本当に愛されているのか」「相手はどれくらい自分を好きなのか」なんてブラックボックスをこじ開けたがる。

そんなこんなで、ネットニュースの恋愛タブには「溺愛彼女の特徴はこれ(ハート)」「本気で愛してます!本命彼女には男性がしちゃう言動◯選」みたいな記事が並ぶし、そうか、みんな愛されたいんだなぁなんて他人事みたいに考える。




私は、うーん、愛がなくてもいいとは思わないけど、溺愛されたいとまでは思わない。

同じだけのものを返せないのにもらってばかりだと恐怖を感じるから、愛も物資も金銭も必要以上に貢いでほしくはない。

それでもやっぱり、私だってほんのちょっっっとだけ、私より相手からの気持ちが大きいとうれしい。




そんな風に思っていた学生時代、付き合っていた人と行ったカラオケで、彼が予約を入れた曲のタイトルが「51%」だった。

アーティストは知っていても曲は知らなかったから、最初はぼんやり聴いていた。


ああ、恋愛ソングだ。
えー、これ、ベタに「俺のお前への気持ちだよ」って感じなのかなぁ、ふへへ。

いいね、好きだとか愛してるだとか直接的な詞がないのが好きだ。
私はあなたのポケットに手を突っ込むなんてかわいい仕草はできないし、ペーパードライバー極めてるから「たまには運転するよ」なんて言えないけど、このふたりの落ち着いた距離感がいいね。

そんでたぶん、「51%」って、彼氏の気持ちなんだね。
「幸せや悲しみを半分に分かち合いたい」って歌うけど、ほんのちょっとだけ「俺」の方が気持ちが大きいんだね。
えー、それめっちゃ私の理想だなぁ。




なんて内心でにまにましながら聴いていた。
「これが俺の気持ちだよ」って言うなら、私のことけっこう分かってくれてるじゃん。


そう思って、今思うとベッタベタのベタなんだけど、この曲は彼からもらったラブレターだ、みたいな気持ちになっていた。
愛が綴られたメールを見てじたばたにまにまする中高生みたいに、ふと人恋しいときにそっと歌詞を眺めたり、センチメンタルな夜に曲を聴いたりしていた。

これまたベッタベタのベタに、自分たちのことをふと振り返って「あ、あの歌詞ってこういう気持ちを歌ってたのかな」なんて重ねて噛み締めたりした。



学生ながら遠距離恋愛だったから、やっぱり同じ条件だと関係が続かない人が多くて。
その別れまでのストーリーを聞いては、同じように別れにたどり着いてしまわない自分たちのことが、少し誇らしくなったりもした。


あの人たちは、あんまり会えないのがやっぱりダメだったんだ。2ヶ月に1回でダメだったんだ。
でも私たちはそんなことないよね。会えるのが3ヶ月に1回とか半年に1回でも、毎日連絡してればわりと平気だよね。

授業とかサークルとか忙しくて、寂しいとか思うヒマもそんなにないもんね。「恋人に会えなくて寂しいから他の人に」ってほど恋したいとか、「誰でもいいから傍にいて」みたいな感じじゃないもんね。
「電話が5日に2回じゃ少なすぎるね」なんて歌もあったけど、声聞かなくても、毎日何してるか知れたらそれでじゅうぶんだ。


そうやって、ほかの遠距離カップルの別れた理由が自分たちには重ならないことを確かめたりしていた。思いつく限りの、「私たちはこうじゃないから大丈夫」を探していた。



車もなければお金も時間もそんなになくて、どちらかの街でたまに会うたびにカラオケによく行った。

2回に1回くらい彼がこの曲を入れるから「大丈夫わかってるよ、伝わってるよ」なんて内心思いながら、さすがに照れちゃって画面も歌っている本人も直視できなくて、曲を選んでいますよーという体でデンモクをひたすら操作していた。

付き合い始めて何年も経って、しかも本当にたまにしか会えなかったけれど、まだこんな風に思ってもらえるんだって嬉しかった。そんな関係でいられる自分たちでよかったなって、本当に小さなことだけど幸せを感じていた。



結局、あの頃「忙しくて距離ができちゃっても離れないように、離れられない理由を増やしていこう」と歌ってくれた彼は今そばにいない。
もうずいぶん前に離れてしまって、今はどこで暮らしているのかもはっきり知らない。

最後に聞いた彼の言葉は、何年も前の大晦日の駅での「来年もよろしく!」だった。
お互いの家の方面に向かって構内で分かれてから、ふと「来年もあるんだ?」「とか言って来年はもう会わなかったりしてね」なんて思い出し笑いをしていたら、予想通りっていうか予想を超えて。そのまま来年も再来年も、もうずっと会わなかった。



「もし何かのきっかけで別れが来ても、やり直すきっかけを探そう」って歌っていたけど、特に別れのきっかけもなかったから、やり直すきっかけも芽生えようがなかった。
そもそも別れなんてドラマチックなものじゃなくて、ただただそっと、じわじわと離れてしまっただけだった。


理由のない別れは「これがダメだった」って原因がないから復活しやすいなんて聞く。でも、さすがに物理的に離れすぎちゃったらきっかけも何もない。

強いて言えば、最後のきっかけは彼の配属先が、今までの距離感よりさらにうんと遠くになったことだった。でもそれは自分たちで作ったきっかけじゃないし、だいいち「何がなんでも距離に負けない」みたいな熱量がもうなかったことが、わたしたちがすでに一緒にいない理由のすべてだ。




「ああもう、私の中にも彼の中にも、互いの生活に互いはいないな」
「もうそれは、ただの知人より友達よりずっと遠くて、別れ話がなくとも絶対に恋人なんかじゃないなぁ」

誰かの恋の話を聞いたある夜に、ふと、すっと、そう思えた。



だって私がこの人と付き合ったのは、この人がどんな大人になっていくか知りたかったからだもん。
それを見ていられて、聞かせてもらえる権利が欲しかったからだもん。
でも今の私、ううん、もっと前から私、この人に対してそんな権利持ってなかった。

「ほんのちょっとだけ、この人の方が私を好きだ」って、そんな確信に甘えてあぐらをかいて。私だってこの人に全然なんにも伝えてなかった。



だからもう終わりだって決めた、いわゆる自然消滅。

でも別に嫌いになったわけじゃないから、彼との日々まで消えるわけじゃない。

昔みたいに、彼を思い出して嬉しくなったり元気になったり照れたりはもうできない。けど、「あの頃の自分たちはかわいかったな」と思える思い出はちゃんと残ってる。




何なら幸せでいてほしいって本気で思うし、結婚報告を聞いたり実はもう結婚してたりしても、たぶん素直に、「よかったー!嬉しい!しあわせになれ!」って思えるだろうと思っている。


でもひとつだけ、ひとつだけ元カノ面して言わせてもらえるとしたら。
あの頃よりきみも大人になって、もうそんなこと思ってないかもしれないけど。


「言えないけど本当に思ってるから、姿勢で伝える」とか、「好きだと思うほど軽々しく言えなくなる」とか「口にしたら言葉の力がなくなっちゃう」みたいな部分だけは「ちがうだろー!」って思ってたよ。
ここがきみの一番の共感ポイントだったらどうしようって思ってた。




思ってることがあるなら、伝えられるうちにちゃんと言葉で伝えよう。今度は。

たぶん私もいっぱい言いたいことがあったけど、「今度会えたらこれを話そう、こんなことをしよう」とか思ってたら「今度」が二度とこなかった。だから、もう我慢はしないぞって決めた。



どっちがどれくらい好きかとか、もう張り合わない。そんな勝負をするために誰かと付き合おうなんて思ったわけじゃなかった。
互いの温度感や気持ちが、フィフティーフィフティーだとしても、別に惚れ込まれてないとかそんなんじゃないんだった。

互いが好きなように過ごして、それでも一緒にいられる人といたい。
言いたいことは伝えて、今度会えたらしたいことはできるだけ寝かせない。いつかじゃなくて、いつならできるかをちゃんと話し合いたい。

長い年月をかけて育つ愛は美しいけど、やっぱり鉄も気持ちも熱いうちに打った方がいいのも確かだ。

それが、私がきみとあの歌から学んだこと。




それでもね、私のことすごく好きでいて大事にしてくれたこと、それはほんとに本当に伝わってたし嬉しかったよ。例え、最後までずっとそうじゃなかったとしても。

「何かあってもやり直せて、離れられない理由がいっぱいあって、いろんな気持ちや思い出も半分こにできる人といたい」って、思わせてくれたのはたぶんきみだ。


長く一緒にいすぎて、今更なかったことになんかできないから、私はきみとの時間あっての私だって開き直って生きていくよ。

私はもうきみにこんな風に思われてないかもだけど、まあ、もう、そんなこと比べないから別にいいや。




私は今もこれからも幸せでいるから。幸せになるから。
できたらきみも、そうでいて。


君には聞こえないこんなとこで、どうかいつまでも元気でって呟くよ。

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