「左足をとりもどすまで」オリバー・サックス著〜50歳脳卒中で片麻痺リハビリ中
2022年7月49歳の時に脳卒中で倒れ入院、1週間後めでたく50歳に。
後遺症で右片麻痺になり7ヶ月のリハビリ入院。12月noteをはじめ、2003年2月に退院。現在は通所リハビリ継続中。これまでの経緯と入院闘病記はこちら↓
「左足をとりもどすまで」
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足が存在するという感覚がまるでしない
脳神経科医のオリバー・サックスと言えば、ロバート・デニーロ主演で映画化された「レナードの朝(1973)」の著者として有名だが、この本はサックスが自ら患者になった体験を綴ったもので、1984年に書かれたものである。
登山中ノルウェイの山中で滑落事故にあい、左足大腿四頭筋腱切断という重傷をおった著者は、手術を受け成功したにも関わらず、なぜか左足が自分のものと感じられなくなる。神経の障害のため、脳の中の左足のボディ・イメージが失われてしまったのだ。
いわゆる「感覚障害」だ。著者のような外科的な損傷によるものではなく、私の場合脳卒中(視床出血)によるものだが、全く同じような感覚を経験している。病院に運ばれた当初は右足どころか頭からつま先まで完全に麻痺しており、手足はピクリともしなかったため、まるで右半身がどこかに消えてしまったような不安な感覚を覚えた。目で確認すればあるのに「ここ」にないという奇妙な感覚。
右半身の消失感は1年経った今でも残っており、特に夜間ベッドに入って照明を消した時や、手足が視界に入らない位置にある際は存在するという感じが失われ不安な気持ちになる。
ふたたび一歩を踏み出すまで
サックス氏の手術は成功し、ギプスをはめてはいるものの外科的には「何の問題もない」状態だったため、ほどなくしてリハビリが始まる。
体格のよい二人の理学療法士に抱えられ、松葉杖を使って立たされた。
これもよくわかる。視界から外れてしまうと途端にどこに足があるのかわからなくなる。不安になるので目で見て確認したくなる。下を見ずにはいられない。
そんな著者に理学療法士たちは無情にも「下を見ないで正面を見て」と言う。
なんとかして最初の一歩を踏み出そうと試みるものの、「歩き方がわからない」のである。そこで理学療法士が手を貸し、半ば強引で人為的ではあるが最初の一歩を踏み出した。
テーマは素晴らしいが…
最初の一歩。ここまでで本の3分の2を費やしている。
正直長い…。長すぎるだろう笑
ある日突然、不慮の事故で患者という立場になった医師として、その内面に迫りたいという気持ちはよくわかる。実際に患者になると、医者に限らず医療者の中には「病気」しか見ておらず「患者」を見ていないなぁと感じる人が少なからずいる。
サックスもまた医者であるがゆえ、単に病気(または怪我)をした箇所の原因を取り除くことこそが医師としての責務であったが、自身が患者になる経験を通し、それだけでは不十分だということに気づいたのであろう。
心の問題に注視する、病気だけに注目するのではなく人間を丸ごと対象として考える。というのがテーマなので仕方ないが、著者の心の有り様を比喩で長々と形容したり、また情緒的で抽象的な記述も多く、だいぶ冗舌で回りくどい。はっきり言ってその辺は途中でうんざりした(…ちょっと辛口)
だって病院に運び込まれて、最初の一歩を踏み出し左足の「存在」を取り戻すまで、わずか2週間ほどの出来事なのだから!たった14日間に起きたことや心情を180ページにも渡って書けるなんて、ある意味すごい…。
心の問題を抜きにして真の癒しはありえない
とはいえ、本書のテーマであり、サックスの他の著書でも一貫して主張してきた「心の問題を抜きにして真の癒しはありえない。」という主張は、患者という立場を経験した今、医療者ならば必ず心に留めておいてほしいと強く願う。
サックスの場合、外科的には足は元通りになっているにも関わらず、歩けるようにはならず、それどころか左足のアイデンティティさえも失っていた。神経の障害という器質的な要因によるものだが、それが引き起こす「不安」は実存的で、その解消が必要だったことに気づく。
病気そのものだけでなく、人間をまるごと対象として考える。病気になるのはからだと心の内面を備えた人間である。
病気におかされた部分を治療することは医学的に重要だが、それだけで健康が回復することにはならず、心と病の関係を無視しては真の癒しはありえない。
というサックスの主張には大いに賛成する。
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