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本棚のつくり方と、その存在意義

本棚をどのように作るか?どのように使うか?ということについては、人それぞれ多様な考え方があるはず。自分に合ったやり方を採用するのが一番良いと思うので、あくまで僕がしっくりくるやり方としてご紹介します。

僕にとって本棚とは、いろんな著者が待機している待機室みたいなイメージです。ホメロス、アリストテレスといった歴史の初期の偉大な哲学者、詩人をはじめ、中世、近代、現代までの優れた作家、学者など、いわゆる”偉人”とよばれる先人や、著名な人々が集う場所。それが僕の本棚。したがって、僕にとっては神聖な場所でもあります。

本棚に向かうということは、優れた哲学者や思想家に相談に行くことであり、また、善き友人とおしゃべりをしに行くことでもあります。要するに、人に会いに行くという感覚ですね。
ですので、本棚にはできるだけ過去の優れた人物が書いた、いわゆる”古典的名著”とよばれる本を並べておきたい。もちろん、古典の他にも興味のある本はたくさんあるので、そういった本も並べておくのですが、できるだけ僕が尊敬できる著者の本を置いておきたい。
とはいえ、古典ならいざしらず、その本の著者が尊敬できるかどうかは一度読んでみないと分かりませんが、ひとまず購入した本は敬意をもって本棚に並べるようにしています。

さて、このような考え方で本棚を作ると、必然的に、本棚や本に対するいくつかの一義的な考え方が否定されます。例えば

  • 本棚は本の保管場所である

  • 本は娯楽である

  • 本は知識であり、本棚は知識の集積場所である

といった考え方が一義的には否定されます。
もちろん、本棚や本にはこういった役割や意味づけもできるのですが、僕にとってこれらは二義的なもの。第一義的には先ほども言ったように、本棚は著者の待機室のような場所であり、僕が望めば彼らはいつでも相談に乗ったり話し相手になってくれたり、あるいは興味深い物語を心ゆくまで聞かせてくれます。

また、この考え方によってもう一つ否定されることがあります。それが、「本は読み切らないといけない(読了しなければいけない)」という強迫観念めいた考えです。
「強迫観念めいた」という言い方をしましたが、僕はむしろ本は読了した方が良いと思っています。読了することに越したことはないのですが、「読みきったのはハイ終わり!」というスタンスは、僕の本棚のつくり方、本棚についての考え方にはマッチしません。本は単に次から次に消費していく娯楽ではないからです(そういう類の本もありますが、僕の本棚にはあまり入らない)。

ただし、「読了すること自体にも意味がある」という考え方もできそうです。意味が理解できないところがたくさんあったとしても、読み切ってしまうことで、何かしら心に残る文章にひとつでも出会うと、それがのちのちに効いてくることがあったりするからです。
あるいは、難しい哲学書を気力で読み切って、結果的に何が書いてあったかよく分からなかったとする。しかしその場合でも、読了する前と読了したあとでは、やはり何か違うような気がします。あくまで「気がする」というレベルの感覚なのですが、むしろこういった感覚が重要な意味を持っているのではないかなと思ったりもします。うまく言語化はできないのですが、潜在意識の中に何らかの形で変化が起きてるような気もする。

というわけで、最後はなんだかフワッとした抽象的な話になってしまいましたが、僕の本棚に対する考え方はこんな感じです。
本というものは、著者が魂を込めて書いたもの。特に古典的名著とよばれる本は間違いない。そういった著者の魂のこもった本を本棚に並べるということは、いわば偉大な人間の魂のエネルギーを集積するということです。
このような本棚を作ることで、常に偉大な魂を身近に感じることができるようになります。そんな本棚が、人間の生きる活力にならないわけがありません。

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