「私」がいないならば、「悟り」もない
「悟り」「目覚め」について
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が一元論のスピリチュアリティであるということは、周知のとおりです。
ですから、コース学習者は、非二元、真理、ひいては、悟り、目覚めといったものを目指してコースを学んでいるわけです。
かくいう私(もりG)もそうです。
ただ、これはあくまでも私自身のことであり、私の見解であるわけですが、
コースの学びが深化していくにつれてどうなっていくのか?
というと、
「悟り」や「目覚め」といったものすらも幻想だったのだということが分かってくるということです。
真理から見るならば、そもそもが「何も起きていない」わけです。
つまり、「悟り」「目覚め」に至るプロセスそのすべてが幻想のストーリーであると分かってくるということです。
悟りとは、「この世界がある、自分はこの世界に居る」と信じているからこそその概念があるのであって、「この世界も無であり、自分も無である」となるならば「悟り」も無いということです。
もっとわかりやすく言うなら、
夢を見ないかぎり、夢から目覚めるということはあり得ず、夢も見ていないならば夢から目覚めるということも無いわけです。
それこそが、非二元、真理の探究の行き着くゴールだといえましょう。
ようするに、コースの学びが深まっていくにつれて、つまり、目覚めていくにつれて、どうなっていくのか?というと、
悟るべき自己もなければ、解放されるべき衆生もいないということも分かってきますし、
悟りとは、夢(幻想)を見続けている者たちの概念にしかすぎないということも分かってくるということです。
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