10ページ目のnoteとすこし惨めなわたし
「1日1つ、noteを書く」と決めて10日目。今のところ無事に続けていられている自分に驚きつつ、10日前と少し変わってきた点があるように感じています。すこしだけ、ほんのすこしだけなんですけど。
ほの暗い気持ちを抱えているような気がして。
10日間での変化
初めて記事を書いたとき、2日目、3日目。わたしは「noteを書く」という目標をもとにパソコンに向かっていました。ひとつひとつ記事を書くたびに《おめでとう!》と表示される公式の通知に励まされ、心踊り、「明日も書くぞ、何を書こうかな」とわくわくしながら1日が始まっていました。
4日目、5日目、6日目。おすすめに表示されるたくさんのnoteを次々拝見するようになりました。この人の文章素敵だな、こんな考え方があるんだな、この表現いいな…次々と心にたまっていくスキやフォローは増えていく一方でした。
7日目、8日目、9日目。「わたしが言いたかったことはまさにこれだ!」というnoteにもいくつか出会いました。もやもやしていたことをスッと言語化してくれたような「そうそう、そういうことなんだよ!」なんて思うような、そんな記事。
そんな記事に出会うたびに。
「すでにきれいに言語化されている、まさにその通りだ!と思った。わたしが書いても同じようになる気がする。この話題についてわたしが書く意味ってあるのかな…」
なんておこがましい考えが頭をよぎるようになっていました。
なぜnoteを書くのか
そもそも、自分の思考整理のためにnoteを書き始めたはずなんです。もしかして今のわたしは、noteの目的が変わってしまっているのだろうか。
記事を書いてるうちに、すてきな文章に触れるたびに、「この文章うまいなぁ」「こんな素敵な文章が書きたい!」「こんな表現をしてみたい」「自分にしかない表現がほしい」と思うようになりました。
その先に、「誰かに見てほしい、認めてほしい」という感情が見え隠れするようになりました。
あぁ、これ承認欲求か。唯一無二になりたいのかわたしは。誰かに認められたいのか。だからこそ、誰かが書いたテーマに対して、すてきな文章に対してしり込みする自分が増えたのか。「こんなうまい文章書けないな」って。
同じ話題をテーマにしても書く人が違えば、それだけで唯一無二な文章になるはずなんですけどね。
うまい文章ってなに。
そもそもうまい文章ってなんだろう。「うまい」の定義だって人によって違うでしょうし、「言葉のつなぎがきれい」とか「段落をきちんと使い分けてる」とか、そんな点もうまいポイントとして考えられるでしょう。わかりやすく要点から書かれる文章もすてきだし、詩的な表現の文章も趣があってすごくすきなんですけども。
わたしが書きたい文章ってどんなものなんだろうって考えたときに思い浮かぶのは、「難しすぎない、読んだときにすとんっと腑に落ちる文章」なんですよね。シンプルででまっすぐな感じ。余計なものがないような。こう、矢を射抜くみたいなストレートな文章が。書きたい。書きたい!
書いてみたいと思ったテーマを諦めない
ここに、新たなnoteを書く上での目標をたてます。書いてみたいと思ったテーマがあるのなら、ほかにどれだけ素敵な文章を読んでもあきらめないでまずは書いてみること。だって書きたいのに書かないってもったいない気がするんですよ。いいじゃないか、書きたいんだから。見てもらうためじゃなくて、わたしの「書きたい」をかなえるために。
誰かに見てもらうために書くことも、仕事であれば必要でしょう。けど今は、この場所は、わたし自身の書きたいをちゃんと形にする場所だから。
感じたことや、考えたことを、自分のことばで形にする場所だから。
わたしのnote、10ページ目は。新たな決意を残しておきたいと思います。
「迷ったらとにかく書いてみる」
もしも同じような感情を抱いている人がいるのなら、よかったらいっしょにまた書きませんか。わたしもわたしの言葉を綴るので、あなたの言葉を綴ってください。
未来のわたしへ。また躓きそうになったら、ここへ戻ってきてください。
11ページ目のノートには何を書こうかな。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。何かあなた様の心に残せるものであったなら、わたしは幸せです。