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◇不確かな約束◇第6章 上




「これがポプラの木か」

私は、まだ茶色がかっていて芽吹く前のポプラを見上げて独り言をいった。
正直、もっときれいだと思った。

私は北海道大学に入学し、それなりに大学生活を過ごしており、まもなく1ヶ月が過ぎようとしていた。もう5月だというのに朝は時々息が白くなるほど冷え込む気候に、ちょっとずつ慣れてきた頃だ。

大学の構内はとにかく広かった。歩いても歩いても重厚な建物と樹木が続いていくキャンパス。北海道というキーワードからイメージする私の感覚が、そのまま飛びだして目の前にあらわれた、というくらいしっくりきていた。

ただし気持ちは沈んでいた。自分でわかるくらいに伏し目がちになっている。シュウと別れて志をつらぬき、すべてこのために準備して入学した北海道大学獣医学部。なのにどうしてこんな気持ちになっているのか。心が晴れない。シュウに未練がある?知り合いがいない場所だから?なにがこんな気分にさせるのか。私はまるで薄い毛布に顔までくるまりながら生きているみたいで息苦しい。

最近は夕食を外に食べにいくことが多くなった。私はよくいく店を決めていた。こうした居場所を作らないと自分を支えられないような気がして。その店は北24条にある中華料理店の宝来亭。北大生がよくいくお店のひとつで、繁華街には必ずひとつはあるような大衆食堂感満載のお店。今日も入口に自転車やバイクがたくさん止まっており、お客さんでいっぱいなことがひと目でわかった。

「らっしゃいっ!あーっ毎度ありがとねー、またいつものかい?」

店長さんはとても愛想の良いひと。いつも鉄鍋を豪快に扱いながら大声で迎えてくれる。私は軽く頭を下げて

「はい、いつもので」

そう言って奥の座敷の席に靴を脱いであがった。この席が妙に落ち着く。ここからは店内がよく見えるから。狭い座席には大学生や作業員風の男性たちに混じって、ポツラポツラと女の子もいてカウンターにひしめき合ってチャーハンなんかを大口を開けて食べている。この気楽さが良い。気取った世界ではなく心がゆるやかになれる場所。私はそれを求めていることがはっきりと自覚できた。

「はい、お待たせ、C定食です」

テーブルに料理を運んできたのは店長のもとで料理人として修業している20代半ばくらいの背の高いお兄さんだった。ちょうど休憩の時間らしく私の左斜め向かいにドカッと座ってきて、まかない料理を食べ始めた。

私は目の前に出されたC定食、つまり特盛のホイコウロウ定食をみつめていた。なんか食べにくい。このお兄さんの前でこのホイコウロウをガツガツとは食べにくい。そのため私はいつもより半分くらいの口の開け方でホイコウロウを食べることにした。不服だけど。

「おねぇさん、どこの学校?」

あまりの突然の質問に喉がつまった。私は慌てて水を飲みながら

「あ、北大、、です」

「へぇー、頭いいんだ、おねぇさん!」

なんか失礼な感じもしたが不思議と憎めない男性だ。

「何学部なの?」

ずいぶん聞いてくるなこのひとは

「獣医学部よ」

「あ、獣医、動物の先生か。動物病院とか開くの?」

なんかだんだん子どもと話してるみたいな感覚になっていた。

「いや、別に病院を開くわけじゃ、、」

その瞬間、私は胸の奥が熱くなるのを感じて箸が止まった。私がどうして北大の獣医学部に入ったのか。それを考えただけで涙があふれそうになる。


私が中学生の時、近所に住む歳の離れた美咲さんというお姉さんがいた。歳は25才で新婚夫婦。ご主人の転勤で地元の北海道から東京に出てきたとのことだった。美咲さんには大切に育てている薄茶色の柴犬がいた。名前はゴロー。ゴローはとにかく賢い犬でいつも私と美咲さんの顔を見上げては表情や感情を読みとってるそんな犬。私たちはゴローとともに本当によく遊んだ。年上の美咲さんへの憧れもあって心はいつもドキドキしていたことを思い出す。

でも、ある時期から美咲さんは元気がなくなっていった。花火を見に行った帰り道で話してくれたのは、赤ちゃんができないという内容の話だった。そのことでご主人との関係が良くないと。そうした話を美咲さんはうつむきながら少しずつ話してくれた。

それから3ヶ月後にご主人と離婚したことを美咲さんから聞かされた。なぜか美咲さんは涙ひとつ流さないで淡々と私に話していた。そこにもうひとつ辛いことが重なってしまう。突然としてゴローが歩けなくなってしまったのだ。獣医からは筋力にはまったく問題がないため、心の病いかもしれないということだった。敏感な犬であれば十分にその可能性はあるらしい。しかしその治療方法はまだないため、できることはそばで寄り添うことだけだという。

散歩も行きたがらなくなったゴローに美咲さんは大きなショックと罪悪感を感じ、しだいに家に閉じこもるようになった。私は時々手紙を出していたがその返事はなく、庭先でぼんやりしている美咲さんを遠目で見守るくらいの間柄となった。ゴローと美咲さんは今も深い悲しみの渦中にいることは間違いない。

だから私は獣医になることを決意した。そして必ずゴローの心の病気をなおす方法を見つける。そうすればきっと美咲さんは元気を取り戻せるはず。

でも、今の私がこの志を貫くには死に物狂いで努力する必要があるの。きっと自分のことで手一杯になってしまう。そのことでシュウを嫌いになりたくなかった。だったら一度別れて、私が成長したあとにもう一度好きになるしかない。それが7年後。それまでにゴローの心が元気になる治療方法をみつける。それと同時にシュウのことが単に好きという気持ちから、もっとなんというか、ずっとずっと高い気持ちでシュウを思える自分でいたいの。単なる好きを超えてもっと、、。それを見つけるための7年間なの。

燃えたぎっている私の表情を、目の前で見つめていた中華料理店のお兄さん。まかない料理をすくったレンゲは完全に止まっていた。

え?まさか私、ぜんぶ話してしまった?この目の前のお兄さんに?

「ず、ずいぶんとすげー気持ちを持って北海道に来たんだな、おねぇさん。ちょっと引いたわ!あの、遅れたけど俺、竜也」

「あ、私はユキ」

そのあと2人は止まっていた箸を取り返すようにモリモリと料理を平らげた。なぜだろう、そのあとは不思議なくらい話しも食事も笑いかたも、飾らない自分で竜也と過ごせたことに驚いた。

宝来亭をでた私は久しぶりに星を見ながら深呼吸した。ほんと変な感じなんだけど、北海道にきてから、今、初めて呼吸したみたいな気分。こんなに気持ちの良いものなんだ。ほんとの自分でいられるのって。北大通りをいつもより元気に歩いた。左側の車道は走りゆく数多くの車のヘッドライトでいっぱい。今は宝石にしか見えないほど綺麗だった。

第6章 中 へつづく

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