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『人間の建設』No.24 人間と人生への無知 №4

小林 アウグスチヌスが「コンフェッション」(懺悔録)のなかで、時というものを説明しろといったらおれは知らないと言う、説明しなくてもいいというなら、おれは知っていると言うと書いていますね。
岡 そうですか。かなり深く自分というものを掘り下げておりますね。時というものは、生きるという言葉の内容のほとんど全部を説明しているのですね。
小林秀雄・岡潔著『人間の建設』

 アウグスチヌスは「古代ローマのキリスト教会の教父。356年~430年。中世の神学体系や近世の主観主義の源となった」(同書「注解」より)。

 当初、マニ教の信者であったのがのちにキリスト教に回心したのだとか。自伝「コンフェッション」は、現今の出版やWEBなどでは『告白』と呼ばれています。

 さて、前段で時というものが不思議なものであり、それが生きるということと深い関連がある、強いて分類すれば時間は情緒に近い、と岡さんが述べました。

 それをうけて、小林さんがアウグスチヌスの著書を引用したのが冒頭のことばです。

 岡さんが言うように、時間が情緒に近いのであればそれを説明することはたしかに難しいですね。「知」でも「意」でもない、「情」というものは、曰く言い難いなにかですものね。

 一回限りの個人の体験や、ゆれ動く情緒のあきれるほどの積み重なったのが人生とすれば、ことばなり何かを媒介して他者に説明したり共有したりすることはさすがに困難なことだと思います。

 時間が計測可能でもなく、均等でもない伸縮自在なものだとの観念や、情緒と結ばれています。いっぽうで、原子時計がつむぐような、計測可能で均等で物理的な時間というものとの観念がわれわれにあります。

 われわれはそれぞれに生きています。二つの時間の観念の間でゆれうごきながら、情緒の奔放な波にゆれうごきながら、人生の流れの綾なす局面にゆれうごきながら。

 時間は目に見えない、においもしない。音や味があるわけでもないし、触ることもできない。でもたしかにある。愛が在るように、情が有るように。

――つづく――

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※mitsuki sora さんの画像をお借りしました。

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