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『人間の建設』No.45 「数学と詩の相似」 №2〈言葉と数〉

岡 物理学者の場合、リアリティというものは、人があると考えている自然というものの本質ということになりますね。それに相当するものは数学にはありません。だから見えない山の姿を少しずつ探していくということですね。ある意味では自然をクリエイトするものの立場になっているわけです。クリエイトされた自然を解釈する立場には立っていないのです。
小林 それがあなたのおっしゃる種をくということですか。
岡 そうです。ないところへできていく……。

小林秀雄・岡潔著『人間の建設』

 ここで岡さんは、数学者と物理学者の立ち位置のちがいについて述べています。比較的わかりやすい説明と思います。同じ自然科学の分野でも数学と物理学ではこれほど違うものなのかという印象を受けます。

 物理学が自然という対象の本質とは何かを追究していく。一方、数学は対象というものを規定せずに数学という抽象的な世界を探求していく。「リアリティ」対「抽象」の大いなる違いがあるように思われます。

「ないところへできていく」。数学とはこういうものだったのか、とあらためて認識させられた気がします。学生時代に苦労した数学の概念が変わりました。つぎの岡さんの説明でその印象が鮮明になります。

岡 ……できていく数学を物理では唯一の正しい解釈を探り当てようとする手段として使うのでしょう。例えばアインシュタインはリーマンの論文をそのまま使った。そういうことを数学はしない。無いところへはじめて論文を書くのを認める。だから木にたとえると、種から杉を育てるということになって、杉から取った材木を組み合わせてものをつくるということはやりません。
小林 そうですか。そうすると詩に似ていますな。

 と、数学というものの本質、物理学との相違について対話する中で、こんどは「詩」と数学との相似に話が移ります。「数学が詩に似ている」と唐突に聞いたらおそらく「なんで?」と訝しく思うことでしょう。

 でも、お二人のここまでのお話を読んできたので、一気に「なるほど」とまでは思えないまでも、もう少し説明を聞きたい。そうすれば納得できるのではないか。

 お二人の対話の先を見ていきましょう。詩と数学の相似についてさらにお二人が確認を行う場面です。お互いの手札を見せあって、そうだね、そうだよ。やっぱりね。そうだやっぱり、詩と数学って似ているんだよ、と。

岡 似ているのですよ。情緒のなかにあるから出てくるのには違いないが、まだ形に現れていなかったものを形にするのを発見として認めているわけです。だから森羅万象は数学者によってつくられていっているのです。詩に近いでしょう。
小林 近いですね。詩人もそういうことをやっているわけです。それはどういうことかと言いますと、言葉というものを、詩人はそのくらい信用しているという、そのことなのです。

「森羅万象は数学者によってつくられていっている」と聞いて、古代ギリシャの数学者・哲学者ピタゴラスの言葉を連想します「世界は数字でできている」。主体が数学者か数字の違いこそありますが。

 その真偽は到底私のような人間には判然としませんが、ない所へつくっていくことを発見・発明ということに抵抗はありません。まさに数学は発見で成り立っている、しかも現在進行形である、ということに納得しました。

 そして数学は詩に近い。詩人も数学者と同じようにない所へつくっていく。使うのが数か言葉かの違いなのですね。おふたりの話を私が勝手に統合してみました。「世界は数学者と詩人によってつくられていっている」。

ーーつづく――




※mitsuki sora さんの画像をお借りしました。


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