『人間の建設』No.49「はじめに言葉」 №4〈言葉のちから〉
前段からの流れでこんどは岡さんから小林さんへ問いが発せられます。小林さんのような文学者であればなおさら、言葉こそが考えることの原点でしょうねと。
ところが、少し意外な答えを小林さんが述べるのです。「考えるというより言葉を探している」。そう言えば小林さんの著作に『考えるヒント』がありました。それを読み返せばここで仰ていることのヒントがあるのかも。
「文士はみんな、そういうやりかたをしているだろうと私は思いますがね」と小林さんは続けます。それくらいに言葉というものが文学者には親しいものであると。かなりの謙遜とも受け取れますが、違うのでしょうか。
ここで小林さんは「そういう楽しみ」といってますね。どういう?、つまり言葉が「ヒョッとでてそれが子供を生む」ようなことが数学でもあるのではないか、と岡さんに聞いているのでしょうか。
ところが、岡さんはその問いに答える前に数学教育について、いわば素人のような人たちがその改革をしようとするあり方に苦言を呈した言い方をしています。たぶん当時の教育界のことを言っているのだと思いますが。
小林さんがここで軌道をまた少し自分の方へ戻そうとしているようです。「数学が生きている」という表現は、例の「言葉が子供を生む」に対応しているように読めないでしょうか。「数学上の言葉が子供を生む」と。
岡さんは、やはり教育ということが頭から離れにくいようです。数学の学習に関して、それを熱心にするのは競争や受験などが本来の目的ではないと言外に行っています。
それは単純な話「好きだからやる」ことですね。好きであれば、やむにやまれぬ内的な動機・衝動で、それこそ寝食も忘れて没頭するくらいのめり込む。それはやがて、無我の境地にもいたるのだと。
小林さんが、創作における精神の動きは一つですね、といいます。文章であれ数字であれ、文士であれ数学者であれ、画家であれ作曲家であれ、大小説家であれ、われわれのような凡人であれ。
ーーつづく――
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