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読書びより

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気ままな読書で感じたことや役に立ったことを書いています
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#人間

『人間の建設』No.53「批評の極意」 №1〈「論語」と「国家」〉

 岡さんがプラトンに話題を変えて、小林さんに振りました。哲学の専門書ではないと小林さんが言いますが、わたしはプラトンは正に哲学じゃないか、現に以前「国家」を読もうとして挫折したのだから、と思います。  小林さんは、また「頭をはっきりと保って」と言います。でも小林さんだからいつでもそうできるのだろう、わたしなどはごく「まれ」にしかそうできない頭の造りなんです、と思ってしまいます。  でも、小林さんの話を読んでプラトンに再挑戦するのもありかなと思いました。挫折してもまた哲学に

『人間の建設』No.52「記憶がよみがえる」 №3〈なつかしさと記憶〉

 この小林さんの発話は、前段の末尾で岡さんが語った「懐かしいという情が起こるためには、もと行った所にもう一度行かなければだめです。そうしないと本当の記憶はよみがえらないのですね」を受けた言辞です。 「不易」は一般に考えられている、固定した価値観のようなものではなくて、詩人の直感であり、幼児のときの思い出に関連していて、そこに立ち返ることを、芭蕉が不易と呼んだのではないかと小林さんは言います。 「「一」という観念」の章でした。赤ちゃんに鈴の音を聞かせる。初め振ったときは「お

『人間の建設』No.50「近代数学と情緒」 №2〈「函数」のみらい〉

 小林さんが、函数の現状について岡さんに質問しました。それに対して岡さんは、複素数という数学の概念に関連づけて函数の発展について触れ、予言的なことも仰っていますね。数学史の類型から推測されたのでしょうか。  さて、数の概念がそれまでの実数の世界であったのを、虚数というものを導入して数を一般化しました。二乗して「-1」になる数を虚数「i」としたわけですね。高校時代、これを習って〈え”~〉と驚愕した記憶があります。  複素数というのは、実数と虚数の足し算で表しますが「コーシー

『人間の建設』No.46 「はじめに言葉」 №1〈わかるということ〉

 小林さんのように、モーツァルトを論じ、ゴッホを語り、ドストエフスキーを評してきた人が、西洋人のことがわからなくなってきたと言います。岡さんも、細胞の一つ一つがみな違っているという気がすると言っています。  岡さんは、若いころフランスに3年間留学しているのです。年表によれば、生涯をかけて取り組む研究分野として「多変数解析関数論」の世界を選んだのが、この留学中だったということです。  また、ラテン文化の奥深さを学んだのもこの留学中の経験がその契機になっているそうです。国際的

『人間の建設』No.41 「一(いち)」という観念 №2〈数学者における一という観念〉

 岡さんは、人間は成長にしたがって一というのがわかる時期が来る。それは十八ヵ月、一歳半のころであると言っています。  小林さんは岡さんの文章を読んだそうなのでご存じですが、私は出典を知りませんので推測ですが、岡さんの子育ての経験からそういう仮説を立てたのかもしれません。  岡さんがいかなる天才であろうとも、お釈迦様でもあるまいし、自分の生後十八ヵ月のときの記憶に基づく話ではないと思うからです。  この辺りの会話は、前段とは逆に岡さんが完全に主導権を執っています。自分の領

『人間の建設』No.31 美的感動について №1〈芥川龍之介〉

 ここで岡さんは芥川龍之介の呼ぶ詩とは何かについて、「直観と情熱」と説明します。  直観と情熱、どこかで聞いたと思いましたら、この対談の最初の方「国を象徴する酒」の節で見ました。すこしふりかえってみましょう。  岡さんは、文学や芸術にも深い興味と造詣をもっているようで、この方面で小林さんの批評というなりわいにつながるものがあります。  また、自身も随筆も多くものしました。小林さんがその中の『春宵十話』を批評した縁でこうした対談が実現したのですね。  その小林さんに対し

『人間の建設』No.32 美的感動について №2〈ゴッホ〉

 以前、母から額装の古い複製画をもらいました。今自分の部屋の壁にかけているのがそれです。この絵、一般には「ラ・クローの収穫風景」と呼ばれ、ゴッホのアルル時代にかかれました。  ゴッホ自身が自作品の中で最も良い作品だと言っていたとか。彼の絵では、わたしはこれをもっとも好みます。ゴッホの手紙は読んだことがなく、オランダ時代の絵を見たことも。機会があればトライしてみます。  複製画ということに関して、上の会話の前段で小林さんはつぎのように言っています。  岡さんもそれにこたえ

『人間の建設』No.30 アインシュタインという人間 №3

 この段落を読んで思い出したのが、例のニュートンとリンゴの話です。 「なぜ、リンゴは木から落ちるのか」という疑問から万有引力の法則が発見されたという逸話ですが、文書記録や物証があるわけでなく、あくまでも伝聞が流布した話であり、真偽は不明なようです。  実際には、当時知られていた、ガリレオの「落下の法則」と、天体の運動に関する「ケプラーの法則」の二つを結び付けて、昇華したというのが真相のようです。(人類最大の謎!宇宙・深海・脳の世界)  それはともかく、リンゴの逸話はおも

『人間の建設』No.28 アインシュタインという人間 №1

 そして、小林さんは「そちらの方は本物らしい、と感じて、それから少し勉強しようと思ったのです。そのころ通俗解説書というものがむやみと出ましたでしょう」とつづけます。  対して岡さんが、「驚くほど出ましたね」と応えたからには、相当出たのでしょう。この後ふたりの会話は、解説書の意義に向きます。これに関してはふたりとも否定的です。  まあ、世の中の解説全てが、おふたりの言うようなことではないにしても、かなり断定的な話しぶりに思われます。  小林さんのような碩学にして解説書では

『人間の建設』No.29 アインシュタインという人間 №2

 小林さんから見て、物理学者と数学者は近いものだと思うのでしょう。不肖わたしなどもおなじイメージをいだいています。  ところが、岡さんによれば両者には意外にもタイプのちがいが明確にあるというのですね。私のたとえがわるいかもしれませんが、物理学者は一発屋の派手好み。数学者はコツコツ歩む地味なやつ。  小林さんは、この対談のはじめのころから、自然科学の泰斗アインシュタインを正面に据えて、自然科学に通底する諸問題について、岡さんの考えを知ろうとしていろいろな質問をしたり意見をぶ

『人間の建設』No.27 破壊だけの自然科学 №3

 前段までに岡さんは、理論物理学がしていることは、破壊とか機械操作であり、建設ということを何もしていない、と述べました。  では、そのやり損ないや間違った方向を改めて、建設に向かって何をどう進めていくのかが問題になります。  どう進めていくかに関しては、ここまでの対談の中で岡さんが示唆されてきたと思います。  知性偏重の態度を改めて、まず「意義を良く考え、それが指示する通りにする」。個我の満足ではなく、携わる者皆の心が納得する方法、知情意のバランスを図って進めるというこ

『人間の建設』No.26 破壊だけの自然科学 №2

 前段で、岡さんはアインシュタインが光の存在を否定したことを前提に「現在の物理学は数学者が数学的に批判すれば、物理学ではない」としました。観念的公理体系、哲学的公理体系というものにかわってしまったから。  さらに岡さんは、理論物理学がしていることは、破壊とか機械操作であり、建設ということを何もしていない、とつづけます。  機械操作というのはこのあと岡さんの話で出てくるのですが、自動車や汽船や電車の発明のようなことです。ここでも、破壊か機械操作しかしていないと、現代物理学を

『人間の建設』No.23 人間と人生への無知 №3

 科学者や哲学者や文学者が、人間とはなにかとか、時間とはなにかを、実験やら思索やら創作やらでときあかそうとしていると思います。  われわれ一般人も、自分や周りのひとのことで悩んだり、答えを見つけたいと思ったり、自分さがしやらで旅にでたり、なにやらといろいろしています。  でも、だれもが納得するような答えはでていません。  悩んで答えが出なくてしんどくなるよりは、すっぱり割りきって「自分はない」「人生ひまつぶし」といった、みうらじゅんさん流の考えに惹かれたりもします。

『人間の建設』No.24 人間と人生への無知 №4

 アウグスチヌスは「古代ローマのキリスト教会の教父。356年~430年。中世の神学体系や近世の主観主義の源となった」(同書「注解」より)。  当初、マニ教の信者であったのがのちにキリスト教に回心したのだとか。自伝「コンフェッション」は、現今の出版やWEBなどでは『告白』と呼ばれています。  さて、前段で時というものが不思議なものであり、それが生きるということと深い関連がある、強いて分類すれば時間は情緒に近い、と岡さんが述べました。  それをうけて、小林さんがアウグスチヌ