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『人間の建設』No.46 「はじめに言葉」 №1〈わかるということ〉

小林 ぼくはこのごろ西洋人のことがだんだんわからなくなってきたのです。
岡 何か細胞の一つ一つがみな違っているのだという気がしますね。
小林 そういうことがこの頃ようやくわかってきた。ぼくらの受けた教育は一種西洋的なものだったし、若いころの自分の好みもそういうふうでしたから、西洋を分かったようなつもりでいたことが多いのです……。

小林秀雄・岡潔著『人間の建設』

 小林さんのように、モーツァルトを論じ、ゴッホを語り、ドストエフスキーを評してきた人が、西洋人のことがわからなくなってきたと言います。岡さんも、細胞の一つ一つがみな違っているという気がすると言っています。

 岡さんは、若いころフランスに3年間留学しているのです。年表によれば、生涯をかけて取り組む研究分野として「多変数解析関数論」の世界を選んだのが、この留学中だったということです。

 また、ラテン文化の奥深さを学んだのもこの留学中の経験がその契機になっているそうです。国際的な経験と視野の広さを有しているおられるお二人にもかかわらず……。いや、だからこそというべきか。

小林 ……それがだんだんと反省されてきました。わかることが少ない、実に少ないという傾向に進むものですね。ところが文明の趨勢というものは逆なのです。何もかも国際的ということになった。原爆問題、ヴェトナム問題から、自分の子供の病気というような問題に至るまで、活眼を開かなければならない。そんなことが、いったい人間に可能でしょうか……。

 この対談があった1960年代の世相は、東京オリンピックがあり、新幹線が開通したときでした。そのあたりから、国際化といわれ出したかも知れません。今でいうグローバル化ですか。

 国際的といい、グローバルと言い換えても、その内容というものはあいまいです。人により意味する内容も解釈もちがうようです。原爆問題云々は、当時の社会運動や軋轢などを指して言ったのでしょうか。

 いま振り返ると60から70年代にかけては、個や人間らしさよりも、思想信条や眷属けんぞくが問われ、それで評価される場面が多かった気がします。経済と社会の急激な変化の中で窮屈さも味わう時代だったかもしれません。光と影。

小林 ……やさしい答えはたった一つです。人間に可能でしょうかなどという問題は切り捨てればよいのです。視野を広げたければ、広角レンズを買えばよい。これが現代のヒューマニズムの正体ではないかという気がすることもあります。
岡 私もそう思います。わかるということはわからないなと思うことだと思いますね。

 ここでの小林さんと岡さんの明快な言説を聞いて思いました。身の丈に合わないことや、常識で理解できないようなことに自分を合わせる必要はない。勇気をもってわからないといえばいいのだなと。

「広角レンズを買えばよい」という意味を考えました。道具の発達で一見便利で上質な世の中になっていくようです。現代で言えば、スマホやAIでしょうか。たしかに「社会」が進化している面は否定できません。

 でも「人間」は進化しているとは言えるでしょうか。スマホのせいで?漢字が書けなくなる人が増えました。私も(笑)。AIのせいで?何も考えらない人が増えました、とならない保証はあるでしょうか。笑えませんね。 


ーーつづく――




※mitsuki sora さんの画像をお借りしました。


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