最近読んだ本


コルヴォー男爵(フレデリック・ロルフ)「教皇ハドリアヌス七世」

noteの国書刊行会の記事で「100年前のなろう小説」など惹句を付けていたから、つい読んでしまった。

それで、実際の内容だが……申し訳ない、かなり退屈である。
と言うか話が予想の範囲を出ない。
売れない作家のローズがなぜかローマ教皇に就任し、型破りの施策が人々を振り回していくドタバタ喜劇だが、今じゃそう珍しいプロットでもないし。

あと、「型破り」と言う割に大したことをしないのも不満である。
ローズがやるのはカトリックの小うるさい規律を少し破る程度、夜の街をバリバリ走る暴走族と同レベルである。
時代を思えば仕方ないが、型破りのキリスト教者を読みたい方はドストエフスキー「悪霊」・「カラマーゾフの兄弟」の二作品から入った方が時間の節約になると思う。

おそらく本作が執筆された当時(1904)は野心作だったが、生き馬どころか火星人まで目を抜かれる二十一世紀を生きる身としては、精々カトリックの異国趣味の芳香が少し漂う以上の刺激はない。
強いて言うなら(おそらく作者自身の嗜癖と思われる)少年少女の描写に艶めきがあった。(ほとんど出てこないが)

また、本作のドタバタ劇を支えるのはローマ・カトリックのえげつない資本力である。
この点で、筆者はカート・ヴォネガットの「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」を思い出した。

主にアメリカの貧富の格差を扱ったこの作品は、私見だが、氏のドレスデン爆撃を直裁的に扱った作品よりも今日性を帯びている。
そう、私たちは―戦争や革命とは違う―目に見えない暴力や悲惨の最中にある。

ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」

作品そのものも「存在が耐えられなかった」と誰かが言っていたが、その通り、古典になるには馬力が足りなかった。
一応知識人の恋愛沙汰と、少数民族者の作品という二点でフィリップ・ロスの「ダイング・アニマル」を(そのうんちくも含めて)思い出した。

個人的には、この作家は頭がよすぎる。
だから他の作家を扱ったエッセイだったり、また本作ならパルメニデスやらニーチェやら哲学者を呼び出してうんちくを垂れるパートが一番楽しいと思う。


中村文則「掏摸」「THE THIEF」

中村氏の書くノワール小説×純文学的な作品のなかでも、本作は文章の緊張感が群を抜いている。
だが、やはり悪の描写が非日常的な領域に留まるのはつまらない。
彼らの悪は結局暗闇に怯える人間が生み出す誇張された悪ではないのか。

一方で、中村氏自身が後書きで言っている通り作中の木崎という男によって「旧約聖書」的な「絶対的な存在/運命の下で動く個人」となる主人公の絶望感は素晴らしい。
神話や構造を背後に抱えていると、作品のスケールが大きくなる。

彼が最後に反抗として行う

人影が見えた時、僕は痛みを感じながら、コインを投げた。血に染まったコインは日の光を隠し、あらゆる誤差を望むように、空中で黒く光った。

p183.

このコイン投げのラストもいい。
神の定めた運命・必然性に拮抗するコインの裏表の誤差・偶然性の対比も見事、(深読みし過ぎかも知らんけど)「日の光を隠し」―神の光に背く暗示も効いている。
すごくかっこいい。

ただ、一つだけ気になるところがある。
本作ではとある貴族の挿話が出てくる。
絶対的な権力を持つ貴族が一人の少年の運命を完璧にコントロールしてしまう―話だけど、作中では―ディストピア的と言うのか(氏の「R帝国」みたいに)―望ましくないこととして書かれている。

しかし、それは人間が完全に自由でいられるという前提ありきではないか。
人は性別や名前、国籍や地域、時代や宗教……色んな枠組みのなかでしか(望む望まざるにかかわらず)存在できない。
例えば村上春樹氏の「品川猿」や本谷有希子氏の「アウトサイド」のように、人は皆そうやって生きていく他、選択肢を奪われている。
だから、筆者は誰がこの貴族(的なるもの)―即ち生の決定論―と無縁に生きられるだろうと思う。
人がこの世に生きる限り本当の自由など手に入るとは思えない。
諦めつつ、ある種の不自由さを引き受け生きざるを得ない―それが私たちではないか。

そうした普遍化が作中で不十分な結果、読後感が「ヤバい悪人にとっ捕まったスリのクライムノベル」という枠に収まりがちなのはやはり残念に思う。

(以下戯言)

カントが出てくると「悪」の話がつまらなくなる。
所詮カントにとって悪は劣位にある性質であり、それが善の欠損品でしかない以上(実にキリスト教的に)すべての結論は全き「善く在れ」の一語に帰するせいと筆者は確信しているが、中村氏(に限らず悪や暴力や性描写を鮮明に書くことで―誰も頼んでいないが―人々の市民的かつ偽善的な道徳観念を破壊せんと目論む数多くの作家たち)もまた、徹底して悪を書けば書くほど、それがむしろ私たちの小市民的な善を肯定する結果に終わる単純至極な道理にいつまでも気がつかないように見える。
確かアウグスティヌスがのたまった言葉のはずだが、「憎しみ抜きの愛は存在するが、愛抜きの憎しみは存在しない」ように、善と対比する形で悪を書いた時点で、それは「善悪」という悪の側に絶対的に不利な土俵に上がっているのだ。
だから露悪趣味とは退屈。もしこの世に善が露一粒もなければ私たちは一体どうやって悪を暴露するのか。
だから(さっきも言ったけど)私は村上春樹氏の「ねじまき鳥クロニクル」の生きたままの皮剥ぎだとか、「海辺のカフカ」の猫殺しだとかにもそれほど興味が持てなくってね、それは結局氏の暴力・悪の描写は「小説の内部で」暴力・悪として定義されている以上、檻の中の虎のように、私たちはあくまで物珍しい動物を眺める心理で脇を通り過ぎればよいから。
私は思うが、私たちは無意識に善を参照項としながら悪を定義する。だから「優しい刑事と怖い刑事」のように、中村氏の作品でどれほどの邪悪が現れようと(あるいは道徳の教科書でわざと不品行な振る舞いに打って出る子どものように)それは善を強調するためのキャラクターと化され、無害化された存在としか読めない。さながらバッドマンのジョーカーを誰も本気で取り合わないように、私たちはいつか悪とお化け屋敷のお化けを混同してしまったみたいだ。
悪とは、小説に拮抗する詩である。現実の無条件な連続を切り裂き、世界が本質的には世界に背くものを孕んでいると暴露するジャーナリストである。
だから私は嫌だ。悪が血や硝煙の臭いや精液で汚れてくのが。
透明な朝の光のような、五月を吹く風のような悪を求め筆を擱く。

※以下、性的な話題を含みます。



諏訪哲史「貸本屋うずら堂」

相当トンチキな小説だった、紹介したい。
本作は「貸本屋「うずら堂」の店主、「おじさん」」が描き残した無数の貸本漫画を「わたし」が追う―作中内小説ならぬ作中内漫画を扱った怪作。
しかし無念、おじさんの描く漫画はときにトンチキでときにヘボ、ロクなものがない。

どことなくガロ系の気配のするこのおじさんの作品で、もし一つチョイスするなら筆者は「なめずり観音」を推したい。
といってもあらすじからすでにカオスである。
あらすじ:少女のエリコちゃんのお尻から出てきた「四メートルの」「血便つき」サナダムシに(大人になってからもずっと)惹かれ「神棚に祀っている」少年テツくんの寄生虫・ラブ(?)ストーリー。

以下は彼の不器用な愛の告白。

―このたっとい淑女にのみ用いられる、細く長い真田帯(筆者注:サナダムシのこと)は、顔を近づけると、まるで没薬のように媚薬めいて蠱惑的な、神々しくもみだらな薫りを、いまもたたえているヨ(略)

p252.

こうした描写を不愉快に感じる方も当然おられると思う。
ただ、少し擁護すると本作はむしろその価値転倒性―ユングの夢に出てきた「肉の王」(巨大な肉の棒の姿をしている/天上の神イエス・キリストの精神性に背く地下の神≒肉体の象徴とも呼ばれる)のよう―に意味がある。
それは地上的な「美」の基準を、血便にまみれたサナダムシという汚濁によって壊すことで何かしらの彼岸/あの世的な価値を招来する一種の儀式なのだ。

三島由紀夫「仮面の告白」で同性愛者にしてロマンチストの「私」が放校になった―若かりし頃のアラン・ドロンのように―美しい少年近江おうみのその後を

(略)何かしらの知られざる神(略)に奉仕し、人々を改宗させようと試み、密告され、秘密裡に殺されたのだった。(略)

文庫p76.

と夢想するように、筆者はテツくんがいつかサナダムシ教の教祖となる日を夢見る。
その地下秘密結社で、私たちの直腸内では必ず一匹のサナダムシを飼うことが義務付けられるのだ。

村上春樹「夏帆」

単行本には未収録。
筆者は新潮の創刊一二〇周年記念号で読んだ。
夏帆という―取り立てて特徴のない―女性が、突然デート相手の男、佐原から「正直いって、君みたいな醜い相手は初めてだ」と言われる―そんな話だ。
他作品とのつながりでは、短編「ゾンビ」や長編「スプートニクの恋人」のフェルディナンド、女性の醜さが題材となる点で短編「謝肉祭」も思い出される。

読んだ感想だが、思ってたよりずっとよかった。
前読んだ「一人称単数」が表題作を除いて結論ありきの説話みたいな有り様になっていて、「あ、もうダメか」と思ってただけ、本作の人間の悪意が生々しく立ち上がっていくプロセスからは目が離せなかった。
(筆者は村上氏の仰々しい悪より、「一人称単数」や本作の市井の悪のほうがやっぱり好きだ)

もちろん最後、夏帆が(シルヴァスタインの「ぼくを探しに」のような)女性が顔を探す絵本を書くことで精神的に癒されるラストは、加藤典洋氏の言葉を借りれば「作者の打ったカンフル剤注射の」感じはあるし、

佐原は(略)今回は濃い茶色の革ジャンパーに細身のブルージーンズ、履きこんだワークブーツという週末用のカジュアルな格好だった。サングラスを胸のポケットに入れていた。とても小粋だ。

p14.

はどう考えても70年代に南極のクレバスに閉じ込められコールドスリープ状態だった人間の描写としか思えないけど、まあいい。 
正直、私は村上氏が何か書いてくれるだけで嬉しいのだ。

◯人間の肉体は自らで完全にコントロールできない、にもかかわらず自らの一部である点で、村上氏の扱う「無意識」の具象化とも思える。
ということは、本作の佐原は他人の無意識(≒顔/直接見ることはできない自己の一部)に働きかけることで―この男は夏帆だけではなく様々な女性に同じことをしてきたらしい―他者をコントロールする点で、「ねじまき鳥クロニクル」の綿谷ノボルとつながる悪の系譜に位置づけられる。

(余談)なんかスノッブ臭いから書こうか迷って結局書く。
「村上春樹ハイブ・リット」収録の短編「レーダーホーゼン」を隣の英訳と読み比べていた。
浮気性の夫とレーダーホーゼン(※ドイツの半ズボン)を理由に別れる妻の話なんだけど、面白い言い回しがあった。
というのは英語の「skirt-chaser」で「浮気男」の意味になるのだ。直訳すると「スカート追っかけ野郎」である。
筆者はここで堂々意見したい。「脱法ハーブ」を「危険ドラッグ」と言い換えたように、これからは「浮気性」などと言う贅沢な言葉の代わりに「スカート追っかけ性」を使うことにしよう。
例えば、「……、あの人、浮気性だから……」とすればメロドラマ風になるところを「……あの人、スカート追っかけ性だから……」とすればこれはもうコントにしかならぬ。
かくして健全な日本男児が淫猥な婦女子の誘惑に乗ってしまうふしだらな雰囲気をぶち壊し、明澄な笑いと化すことで、結果的に社会風紀の改善が見込まれるのである。

年森瑛「逃走」

同じく新潮から。
ネタばらしになるが、本作は「走れメロス」を妹の視点から異化して書いた奇作。
といってもここのメロスは―ピカソの新古典主義のような―明朗な青年ではない。
9.11後のアメリカ同様、善は善でも「独善」の男である。
女性が絶対強者である男性と暮らす恐怖がどのページにも染み込んでいて、読んでいて辛かった。
しかし、こうした恐怖心は(私のような男性には)おそらく永遠に分からない。その点で私は無様に恵まれている。
だが読めてよかった。

J.M.クッツェー「ポーランドの人」

とても不思議な話だ。
まず、ベアトリスというスペイン人の中年女性が、ヴィトルトという高齢の「ポーランドの人」であるピアニストに求愛されるも、決して本気にせずつかの間の情事として関係を断つ。【第一章〜第三章】
ところが、何を思ったかヴィトルトは長い長い詩を(実に「八十四篇」)ベアトリスに向け書き遺していた。ベアトリスはこの奇妙な求愛行動を前に戸惑いつつも、その内容を知ろうとし始める。【第四章〜第五章】
そしてついに彼女は(すでに死んでいる)ヴィトルト宛に手紙を書き始める。【第六章】

さて、本作は帯で「ピリ辛ロマンチック・ラブコメディ」と書かれているが、やや疑問である。
確かに第三章までを読むと中年女性と高齢男性の―言語の差異から意思疎通さえ不確かな―たどたどしい恋愛模様が目につくのは事実だ。

だが、その印象は第四章(ヴィトルト死後)から変わり始める。
筆者が最初に感じたのは、本作はクッツェーによる「愛の再定義」だったのではないかという思いだ。

現在の日本で、愛とはティーンネイジャーたちの私物と化している。要は棒っ切れと水風船をペチペチするのが恋であり愛なのだと。
だが、そんなものが本当の意味における愛だろうか。
私は思うが、愛というのは人間と人間の一番底におけるつながりである。

クイーンとデイヴィッド・ボウイの曲に「Under Pressure」という歌がある。その歌詞で、特に記憶に残るフレーズがある。

 And love dares you to care for The people on the edge of the night
拙訳:そして愛はあなたが夜の片隅にいる人々を気にかけるよう促すから


脱線が続いて申し訳ないが、もう少し聞いてほしい。
今、湯浅誠氏の「反貧困」という著書を読んでいた。
(詩的な言葉は現実を覆い隠す危険を常に孕むが)、そこに登場した人々は、まさに誰もが「The people on the edge of the night」だった。
夜の片隅に遺棄され、行きどころなくネットカフェや公園、住み込みの職場を行き来せざるを得ない人々。
彼らに対し、私たちの社会は何をしてきただろうか。
ただ自己責任論を振りかざし、自らで自らの首を絞めてきただけではないのか。

繰り返すが、なぜ性愛だけが愛だろうか。一人の人間が一人の人間に(どれほど微小であれ)関心を持つこと、それがなぜ愛ではないのか。
愛という言葉が極めて狭い領域に閉ざされ、人々に広く働きかける力を奪われて久しい。


本作「ポーランドの人」で「感動的」なのは、第六章である。
すでに死者となったヴィトルトにベアトリスは手紙を書く。最後の言葉はこうだ。

追伸―また書きます。

p203.

すでに死者となったヴィトルトに対し、ベアトリスは―彼の八十四篇の愛の詩を媒介に―関わりを持とうとし続ける。
筆者は断言する。これは愛である。
この詩の訳には不鮮明な部分が残るため、ヴィトルトの創作意図が正しく伝わっているかの保証はまるでない。
だがそれが愛であることに何の支障もありはしない。
愛とは誤解に怯えながら他者と関わろうと足掻く人間の行為である。

この小説はコメディ、笑い話だが、真に見るべきはそうした無数の滑稽さやバカバカしさの茨の向こう、ベアトリスとヴィトルトの愛の姿だと筆者は思う。


なお、死者との交流可能性という点で筆者は大江健三郎氏の「取り替え子」のエピソードも思い出した。
もし他に知っている作品があればどしどし教えてほしい。

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