最近読んだ本
ざっくり言うと、
①小砂川チト・川野芽生両氏は現代を生きている女性がどんな物を書いているか知りたくて読んだ。
②フィリップ・ロスは半ば惰性で読んだ。ユダヤ系の作家だ。
③藤原定家?は「松浦宮物語」(タイトルは遣唐使で唐土に向かった息子を待つ母親が建てた宮殿に由来)という謎の古典の感想。
④佐藤友哉氏はトンチキ小説が読みたくて読んだが、思ったよりずっと面白かった。こういう小説が書いてみたいと自然に人に思わせる作品だ。
小砂川チト
「家庭用安心坑夫」「猿の戴冠式」どちらもかなり奇妙な話で、前者はとある女性が父(あるいはマインランド尾去沢の坑夫人形)を探し求める話であり、後者は競歩のプロアスリートがチンパンジーと特殊な心の交流を深めていく話である。
(余談:マインランド尾去沢について体験者としての付記。
バブル前夜の負の遺産である。使い回しの効かない(夕張市を財政破綻に追い込んだと噂の)典型的なハコモノで人はほとんど来なかった。廃墟になったら心霊系YouTuberのカモにされそうである)
本題に戻ると、両作品には共通して存在の不安という主題が見受けられる。
まず、「家庭用(略)」の主人公小波は集合住宅の暮らしで彼女の立てる物音を過剰に気にする。
小波は自意識過剰に見える。だがそれは彼女の自意識が強いのではない。
たとえば毎日体型がガリからデブまで変わり続ける奇病に感染した人がいるとすると、その人はいつも鏡を見て、自分の服が本当に似合っているか気にするだろう。
自意識過剰もこれに似て、むしろ自分という存在や意識に確かな形を与えられないから、人は過剰に鏡を―他者のまなざしを―気にするのである。
なんかサルトルみたいになってしまった。
だから、筆者が読む限りなぜ彼女が鉱山の鉱夫人形を探すのかといえば、それが世界と彼女の意識を再びつなぐため必要な、喪われたルーツ(根)だからである(村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」)。
そう、鉱山の鉱夫は肉体やカンを直に使う労働であり、その仕事にも明白な意義があった。ブルシット・ジョブなどどこ吹く風、世界と人間は幸福な一体性の下にあった(三島由紀夫「潮騒」)。
しかし結局主人公はルーツを掘り起こせない。
マインランド尾去沢は1982年開業。背後に鉱山労働という歴史を孕むとはいえ、所詮は後世の真似事に過ぎない。燃料の王はとっくの昔に石炭から石油へと移った。かつての素朴な労働の魔術性は、資本主義の物神性という魔術によって解体され今では骨さえ残っていない。
偽のルーツ探しの向こう側には虚無しか残ってはいない。
そんな悲しい話だった。「猿の戴冠式」感想は気力がないのでちょっとだけ。
競歩選手のスポーツ小説がすでにあるかは知らないが、本作はその競技者の意識の書き方だけでもなかなかだ。緊迫する意識と肉体の動作の緩やかさがチグハグで素敵。
川野芽生
「blue」むかし感想を書いたが消してしまった。作品と距離を置くのが難しい小説である。
改めて、トランスジェンダーを扱った作品。青色は比較的性別に帰されにくい色だろうし、手元になくてアレだが、
①:ある映画で黒人の子どもが「月の下では僕らの肌は青色だ」(つまりアイデンティティとはその人の自由だ)と祖母だったかに言われるエピソード
②主人公が男性的な名前を青を含む中性的な名に変えたエピソード
③主人公が演じる人魚姫の海
なども暗示させるよう置かれたタイトルだろう。
ただし外に向かって押し出す力は弱い。
筆者のような天才あるいは進歩思想の持ち主はともかく、仕事帰りのよれよれサラリーマンには少なくとも読めまい(この世の純文学はおよそ労働者を読者に入れていないものだが)。
戯曲を混ぜるなどの意欲は感じるが、まだ痩せぎすで、もう少し油物を食うといいんじゃないかと思う。
フィリップ・ロス
「乳房になった男」「われらのギャング」―よくバカなベンチャー企業で「ワンイシュー」「ワンアイディア」といった単語が狂ったように使われるが、そんな作品である。
「乳房になった男」はゴーゴリ「鼻」とカフカ「変身」の組み合わせ。男が乳房になりました。終わり。
マジでそれだけなんよ。
なお、我々には川端康成「片腕」(なぜかどうでもいい天気予報が記憶に残る)と松浦理英子氏の「親指Pの修行時代」(未読)が控えている。暇なら読んでくれ。
「われらのギャング」はニクソンを皮肉った作品。なおニクソンは殺され、地獄に堕ちてサタンと会合した模様。
皮肉ここに極まれりといった作品だが、もはや我が国では数十年は書けまい(下手すると第二の出版社襲撃事件を起こしかねない)。
しかし、本当に笑いが下から下へ向かう国である。上にあるものを笑い、こき下ろす笑いの恐ろしさは忘れさられた。
(サザンオールスターズに依頼してR18指定の「君が代」でも歌ってもらおうか)
藤原定家?
「松浦宮物語」十二世紀に成立した作品であり、物語の帝王こと源氏物語からはおよそ二百年離れている。作者は(おそらく)藤原定家とされる。
専門家でない人間には詳しく分からないが、実際本文には同じく定家作とされる「浜松中納言物語」と似た部分が多いし唐土が舞台なのも共通する。
中身をざっくり言うと全三部のうち、
第一部が源氏物語かくやの恋愛もの、
第二部が少年ジャンプよろしくバトルもの
(第二部後半と)第三部がミステリーである。
詳しく話す。
◯第一部で主人公の美青年氏忠は遣唐使によって唐土に向かい、そこで謎の仙人に会い、琴の名人華陽公主と引き合わされ秘伝を伝授される。(この琴の秘伝伝授譚には「うつほ物語」の影響が見られる)
異国の美女と琴を弾きあう美青年という図が華麗かつ風流な物語である。
◯ここで終われば美しい恋物語として成立するのだが、―何故か―第二部はバトルものに移行する。ここらから定家の付け足しという話もある。確かに不自然だ。
まず新帝が幼い隙に、先帝の弟に当たる燕王が反乱し王座を狙った。
しかし賢い皇后の奇襲作戦プラス
十人に増えた氏忠(?が浮かんだと思うが、増えた理由は本当に謎だ、前世は乾燥ワカメだったのかもしれない)が奮戦した結果、敵方の腕自慢の将である宇文会を撃破、無事に国家の安泰を取り戻す。
◯やはりここで終わらせれば戦乱の世の物語としてそれなりの完成度を誇るのだが、物語はまだ終わらない。
そしてここから先は死ぬほどつまらない。
まず、ミステリーといったのは謎の美女を巡る物語である。山奥の廃屋に住む美女という夢のある設定だが、これが全く活かせてない。
女は毎回氏忠に思わせぶりなことを言ってはすげなく振り、氏忠はぐずぐず恨み言を放つ―これだけの展開が何度も繰り返されるのだ(源氏以後の物語に反復が多いのはそうだが)。
日本ドラマの悪いところを煮詰めたみたいな展開だ。何なら源氏「宇治十帖」のキリの悪さを連想させる。
で、その正体が子持ちの皇后だからたまらない。
次につまらないのは、その皇后と息子の御門が氏忠を死ぬほど引き止めるのである。取りあえず体感五ページごとに引き留めている。
わかるよ、そりゃあ謀反を身一つで食い止めた国の英雄だもんね?
でもそこまで引き留めてどうする。氏忠もウジウジ泣きまくる。ならもう帰んなや―とこれくらいツッコミを強めに入れないと読めない。
◯こうして結末は華陽公主と皇后(繰り返すが子持ちである上に夫の死から間もない)の間でどっちつかずの恋心に悩む氏忠の心中描写で終わる。カタルシスなどかけらもない。
読んだ感想だが、やはり不自然な物語である。
おそらく「異国情緒のある恋物語」としてすでに成立していた第一部の物語に、若き定家が残りの二部を書き足したのが真相のように思われる。
実際そうして読めば、第二部以降は忠臣物語として、道徳臭はするが読めなくはない。
しかしこの、「恋物語」と「忠臣物語」という相容れない物語を無理やり接ぎ木した結果、定家は物語の幹を枯らしたようだ。
例えばせっかく魅力ある華陽公主は、第二部以降その姿を消す。氏忠の細やかな心理描写も、第二部以降は忠臣物語の大枠の元で喪われていく。
結局、本作では乾いた道徳物語がみやびな恋物語を乗っ取ってしまったのである。
また、謎の美女の正体も見れば子持ちの皇后と呆気ない(ただし恋心は本物だった)が、これも物語をある程度の長さにするため、氏忠にさっさと帰国してもらっては困る作者の都合が滲んだように思えるのだ。
実際、物語としてこの要素はほとんど意味を持たず、むしろ氏忠をウジウジさせ、作品の完結を遅らせるためのギミックに過ぎない。日本のアニメやドラマの退屈なのもほぼこのパターンである。オデュッセウスの斧の穴を貫く弓矢の強さ―神話の持つ非日常的な説得力―を放棄し、諸手を挙げてハムレットに化けていく。
佐藤友哉
「転生!太宰治 転生して、すみません」出落ちの感じがするが、侮ってはいけない。
出落ちである。
しかし、かなり面白い。特に、芥川賞に蹴られ続けた太宰が地下アイドルの女子高生をけしかけ芥川賞を取らせようと書かせるブログは最高にいかしてる。
佐藤友哉氏はなんとなく舞城王太郎氏と同じタイプだと思っている、死ぬほど上手な自主映画なのだ。映画監督ならタランティーノみたいな感じ。
今では純文学が午後七時のニュースと化している。真面目すぎて、正しすぎて、誰も愛してはくれない。
こうした小説が、あるいは突破口になるかもしれない。
◯それに、軽みのある小説はバカにされがちだがこれは日の丸国家の悪癖である。
この頓狂な国には、芸術とは何か真剣なこと、立派なことを扱わなければいけないという強迫観念がある。
だが芸術とは子どもの遊びの延長である。何よりも純粋な遊びである。それがわかっていない。
だからこそ文学も政治と同じように「ご立派だけど面倒なもの」と神棚に祀られ、あげく放ったらかされてしまう。
あるいはこうした遊びのなかに、今の文学の硬直を解きほぐす力はあるかもしれない。ないかもしれない。答えはいつも風に吹かれている。