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ダシール・ハメット「マルタの鷹」



マルタの鷹


1930年に発表されて以来、ハードボイルド小説の古典とみなされている本作をどうにか読み終えたので感想を書きたい。

本作はサム・スペードという冷血漢の私立探偵を主人公に据えたハメットの連作シリーズの一つに当たる。

表題「マルタの鷹」の正体は歴史的価値を持つ鷹の彫像(さる騎士団が教皇に贈り物として捧げたが海賊に略奪された後に人から人へと渡った)で、時価百万ドルは下らないらしい代物だ。
この鷹を巡って、怪しげな美女オショーネシー、レヴァント人(ギリシャ系民族)のカイロ、肉付きのいい収集家ガットマン、そして我らがサム・スペードが丁々発止の大捕物を繰り広げる……

本作で一番面白いのは序盤だ。どんでん返しの連続で読み飽かせない。
まず、ミス・ワンダリーという女性がスペードに妹探しを頼みに来る。
◯これは筆者の推測だが、これは本作を退屈な小説だと読者に誤認させる企みではないだろうか。どう考えたところで妹探しの依頼では面白くなりそうにないと一度読者を(わざと)がっかりさせ、その後の展開の印象を強めるため。

ところが、尾行調査をしていたパートナーのアーチャーは早々殺される。(ここではバディ小説のお約束を破っている)しかもアーチャーの妻アイヴァとスペードは不倫しているが彼女の顔の盛りは過ぎており、スペードは内心縁を切りたがっている……

ここからさらにミス・ワンダリーの正体がオショーネシーであることが明かされ、カイロという男とのオフィスでの緊迫したやり取りなどもあり、「マルタの鷹」の正体は邦画の予告編のようにチラつかされて、読者の期待を一層煽る。

ここまでは非常に面白いのだ。だが、「マルタの鷹」の正体が歴史的遺産だと判明するや否や、むしろ話は退屈になる。
何しろ、この先はどうあれスペードは宝を探し奪い合い―云々の既定コースを走るしかないわけで、物語の謎めいた魅力が平らに均されてしまう。

結局、サム・スペードは驚くほど孤独な結末を迎える。彼を愛している(それも本当か分からないのだが)オショーネシーを警察に受け渡し、秘書のエフィにも見限られる。残ったのは因縁づくのアイヴァしかいない……

元々本作を読もうと思ったきっかけは、諏訪部浩一氏の「マルタの鷹講義」がきっかけだった。ハードカバーで380頁もある本著作は、タイトル通りマルタの鷹について延々解説している狂気の一冊である。
筆者には精密過ぎる地図のようで豚に真珠、猫に小判、河童は川に流れたが、読者諸氏には役に立つかもしれない。

神のいない世界の宝探し

ここからは余談である。素人の与太話を聞くつもりでいて欲しい。

まず、蓮實重彦の「物語批判序説」の話をしたい。
村上春樹氏の「羊をめぐる冒険」など三作を対象に、それらの文学が「誰かの依頼を受けた主人公が宝を探す」という共通の「物語」を有することを批判し、同時に現代文学への批判を行ったものである。
筆者は蓮實氏の著作をそれほど念入りに読んだ訳ではないから見当外れかもしれないが、この論には手落ちがあるように思う。

何しろ「誰かの依頼を受けて宝を探す」とはそのまま探偵小説の常套句ではないか。
チャンドラーからの強い影響を感じる村上氏の「羊をめぐる冒険」が同じ構造を持つのは当然であり、もし批判するならそれは村上氏の作品だけではなく、背景にある私立探偵という物語全体を批判する必要があった。

その上で蓮實氏の言い分にも説得力がある。
「他者の依頼を受けて宝を探す」物語は結局本当の意味の主体性を持たない。
誰かの指図を受けて欲しくもない宝を探し、美人のネーチャンやら悪の集団やらに絡まれ、挙句の果てには「やれやれ」―やや悪意を持って言えば、確かに探偵小説とはどれも似たりよったりの話である。

少し横道にそれると、これは前述の諏訪部氏の言だが、探偵小説の前身には推理小説があるという。
つまり、(その態度として)十九世紀的なポーやドイルの世界がある。
彼らの物語を支えているのは世界に対する何かしらの信頼である。世界には秩序があり、謎とはその秩序の一時的な混乱に過ぎない。
だからこそ彼らは(必要とあれば)わずか数十ページのうちに謎を解き明かし、再び平穏を取り戻すことができる。

だが私立探偵においてもはやそのような幸福はあり得ない。世界とはそもそも無秩序であり絶対的な基準はすでに損なわれている。
そこで私立探偵は頭の代わりに肉体を使い、世界へ自らを投げ込んでいく。当然それほどたやすく謎は解かれず、私立探偵シリーズはしばしば長編になる。

筆者の私論―素人の私論とはゴーヤのピーマン詰めパクチー添えのようなものだが―だが、ここにあるのは「神」の衰退なのではなかろうか。
つまり、絶対的な基準をもたらす唯一者(≒神)が、白昼堂々殺された後の世界に私立探偵は住まい、まだピンピンしている世界に安楽椅子探偵はいるのである。

神の死は探偵小説に深刻な影響を与えた。何せ、もはや謎が解かれたところで秩序が取り戻せる保証はどこにもないのだ。
(村上春樹氏の傑作「ねじまき鳥クロニクル」も探偵小説の構造を使っているが、謎は第三部で(それなりに)解かれるものの、主人公岡田亨の妻は戻ってこず、彼の大きな喪失はほとんど癒やされないように)

そして神の不在は同時に「宝」の価値をも喪わせた。神なき世界で一体誰がイミテーションと本物の保証をできるのか?
だからこそ、「マルタの鷹」の当の鷹はヒッチコックのマクガフィン(物語を動かすための存在、ハリウッド映画の悪役御用達の小型核爆弾の設計図のようなもの)より大きな役割は果たせず、事実作中では過剰なほどに金銭的な価値の対象として語られる。それ自体の価値が不在である以上は金銭という媒介物を通じてしか価値の保証ができないかのように。

また村上春樹氏の「シドニーのグリーン・ストリート」から借りれば「伯爵夫人のめんどりの卵ほどもあるルビー」(正確な引用ではないが)に代表されるおとぎ話的な「宝」はすでに私立探偵の世界では損なわれており、そこにあるのはセオドア・ドライサー的な、あらゆる質を量の問題に均質化する金銭―資本主義的な論理の働く場なのである。

だからこそまた村上春樹氏の言葉を借りれば、「ハメットの作品はときどき僕らを驚くほどヒヤリとした場所へ連れ去ってしまう」(やはり正確な引用ではないが)のである。探し求められるべき「宝」が相対的な価値(金銭的な価値)しか持ち得ない世界では、人は自らさえも代替可能な存在としてしか認識し得ない。

ここで巧妙としか呼べない欺瞞を働いたのがチャンドラーであり、それは「宝」のコペルニクス的転回、つまり探し求めるべき宝(絶対)のありかを「内側」に設定したのである。すなわち友情、人としてのモラル、愛、その他諸々に。

(長すぎる余談:なお本邦では宮崎駿氏の「カリオストロの城」が同じ戦略を取っている。作中ルパンがカリオストロ公国に向かうのは「ゴート札」という贋札のためだが、あれだけ人情味に溢れているルパンが通貨不信を起こし他者を不幸に陥れる可能性のある贋札を手にしたがるのは描写の整合性がなく、事実最後ルパンが峰不二子の贋札の原版を欲しがる描写は冒頭の贋札を破棄した描写と矛盾している。なぜこうした事態が発生したかと言うと、この物語が古式ゆかしい騎士道物語の系譜にあるからであり、泥棒ものという「宝探し物語」のきっかけとなる「宝」の設定が単なる導入以上の意味を持ちえなかったことに起因する。事実宮崎駿氏が「今さら宝なんか盗んだってどうしようもない」(不正確な記憶だが)と発言していたように、すでに氏は「宝」の絶対性が損なわれている現実を充分認識しており、そこでクラリスという深窓の令嬢の救出譚に伴うルパンの人間的なモラルのあり方に焦点を合わせることで物語を成立させたのだ)

こうして、探偵小説は 「価値を保証された世界」から「相対的な価値の世界」、そして「相対的な価値の世界で(個人の)絶対的な価値を探し求める世界」へ三段階の変化を遂げたが、ここで四段階目が発生した。

それが蓮實氏が批判した「他者からの依頼によって宝を探す」物語である。
ここではすでに絶対的な価値が損なわれていることは自明である。村上氏の「羊をめぐる冒険」で探される「宝」に当たる星の模様のある羊は主人公にとってどんな意味も持たない。
だがチャンドラーと本作の違いは、もはや「僕」は絶対的な価値を求めないことにある。
確かに主人公のオルター・エゴとしての「鼠」の独白などにわずかに人間的な真っ当さへの希求(チャンドラー的なるもの)の気配は感じ取れるものの、「僕」は一貫して(結末の涙に至るまで)世界の認識者であり続ける。

そこには深い絶望がある。つまり神なき世界で神を求めようにも、その神さえ死んでいた―神が二度殺された世界、絶対者の死という最後の拠り所さえ相対化された世界―それが(強引かもしれないが)「羊をめぐる冒険」の世界観であり、「他者の依頼を受けて宝を探す」物語の背景にはないか。

そこで人はもう決して自らを自らたらしめることはできず(全てが相対的なら今ここにいる私もいつでも他者と置き換え可能な存在でしかない)、理解できず説明されない外部の理屈に従い生きていくだけだ。
たとえばポール・オースターのニューヨーク三部作で繰り返される「私」の消滅や、チャールズ・ブコウスキーの私立探偵もののパロディ「パルプ」の荒涼とした読後感(一番近いのはカフカの「城」だ)は、もはや人が自らの神さえ持つことのできない世界に張り付いて取れない希望の不在ではないか。


なお、現代の「宝探し」の物語にはやはりある寒々しさを感じずにはいられない。何しろもはや「宝」(を保証する神)は損なわれて久しいのだ。
だからいくら古代文明だの核の設計図だの一見華やかな「宝」を設定したところでどうあがいても茶番劇以上にはならない。
それを刺激的なシーンや魅力的なキャラクターで上手にごまかすが当の物語に訴求力がない以上、どうあがいても作り物の域を出ない。

そして私たちもまた消費行為という、それを手にした瞬間価値を失くす虚しい宝探しを続けているのかもしれない。

(追記)本作発表の一年前には世界恐慌が起きている。まさに金銭によって人間が破滅していくのを目の当たりにしたはずだ。


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