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キレ者以外も活躍する社会

本日はこちらです。

世の中の当たり前をどんな技術でどう変える?というのが今回のテーマです。

今回考えたいのは、「キレ者に支配されない世界」です。

キレ者の定義

キレ者とはどんな人でしょうか?簡単にいうと以下のような人を今回はキレ者と定義したいと思います。

■地頭の回転が早く視野も広い人
そのままです、基本的に問題の設定能力も解決能力も高いです。営業なら良い提案ができる人。そして視野が広い人は多面的に物事を考えることが可能です。営業なら良い提案だけでなく相手の感情などにも機敏に反応するタイプです。

■仕事で結果を出せる人
頭が良いので、必然的に仕事は結果を出している人が多いです。また出世頭であることがほとんどです。なので、相手を論破する力がもともとある上に、それなりの立場も獲得していきますので、ますます無双状態になっていきます。仕事の結果も大きくなっていきます。

■社内外の影響力が高い人
そうなれば当然ながら業界でも名物的な人になっていきますし、社内でも打ち手の選択肢を多く持つことができます。単に仕事についての結果だけでなく社会そのものへの影響力を持つ人も現れます。

この3つは絡み合っています。なのでどれか一つと言うよりは3つとも揃っている人というイメージです。

キレ者と組織の関係

非常に雑に言えば、多くの会社はキレ者が支配してきました。いつの時代のどんな組織でも多くの場合、キレ者がその組織の実効支配を行うことで組織は機能してきたと言えます。キレ者がいないとまずその組織は成長することはないです。

仮にトップがダメダメでも番頭さんがキレ者なら、会社はそれなりに永続していけるでしょう。どんなに力のない社員が多くても、社長さんがキレ者ならある程度は成長し続けれれるし、社員に力をつける方法を編み出してもいくでしょう。

一方で、キレ者であることと無関係であると認識しておくべきことがあります。それは人間性や倫理観の高低です。キレ者だから倫理観が高い保証はありません。古来よりキレ者であるが故に出世していく人はいますが、倫理観の低さからとんでもないやり方にでたり、人から嫌われて破滅したりということは、歴史が物語っています。

とはいえ、頭がいいことは、活躍できるための大前提という感じがあります。

あの人には敵わないと思う要素に「頭の良さ」は事実上必須でしょう。時にその人間性に惚れることもありますが、馬鹿だけど人間的に惚れたからついて行くって、無いとは言いませんが、ビジネスで頻繁に起きているのでしょうか?

人間性に惚れるにしても、気持ちを共有し心が震えるには、お互いに一定以上の知能でビジネスについての考え方やアイデアをコミュニケーションしないと、相互理解できる可能性が低いと思います。

なので、「頭が良いから惚れた」、「頭が良い上に人柄も良くて惚れた」はありえても、「馬鹿だけど人間性に惚れた」という理由でビジネスを共にするのは現実的には難しいと思っています。

キレ者じゃないと活躍できないのか?

以上を前提にするとキレ者じゃないと組織で活躍できません。では、地頭がよくない人は努力量と人間性で勝負、ということなのでしょうか?

しかし、人に与えられた時間は1日24時間。同じ努力量をキレ者にされたら、どう考えても追いつかないということになります。キレ者は多くの場合、早く出世していきますので、努力の質も高まりやすい可能性があります。そうすると、努力さえも格差が生じる可能性があるということになります。

ここでもう一つ細かくみたい部分があります。

それはキレ者は全能かということです。先ほどの通り、キレ者だって人間性にはデコボコがあるでしょう。それともう一つは「分からないことが分からない」というのはあるでしょう。頭が良い人にとっては、「一般人が理解できていない」部分が理解できない、なぜできないのかが理解できない、ということはあり得るかと思います。

加えて、集中できる分野に偏りがあったり、逆に適当に仕事することができなかったり、あり得ないミスを平気でしてくる一般人に困惑したりということはあり得るかもしれません。

キレ者の差

なので、キレ者の集団のうち、社長になれるか、部長で止まるかみたいな差は、減点主義で判断がなされます。要するにオールマイティーかどうかで判断されます。旧来の会社の仕組みで言えば、いわゆるゼネラリストであることが重要なのであり、満遍なくコナすことができることが必要です。みんなある程度活躍してきたわけですから、最後の差はミスがないか、できるだけみんなに嫌われてないか?みたいなところになります。エッジが効きすぎているキレ者は、上述した一般人対応の問題をうまく対処できない人たちです。

ただし、減点主義は致命的な問題点を抱えています。

実際には一般人対応できているのかどうかは出世したオールマイティ社長でも怪しいのです。対立軸や問題点を表面化させていないだけなのかもしれません。これらの問題に対する結果が出ていなくても、失敗をしていなければいいわけですので、無難にやり過ごしてきた人も沢山いてもおかしくないのです。

キレ者じゃなくても活躍できる組織や社会の作り方

前段が長くなりましたが、要するにキレ者でなくても活躍できる社会を作りたいと考えています。キレ者も万能ではないはずです。でも会社の評価軸はキレ者であるかで判断している。そうなれば、組織はキレ者主義に染まります。

ここを適正化していくためにどんな技術を使うかと言えば、平凡ですがDXとなるわけです。僕なりのDXの解釈は、キレ者をシェアする機能、という感覚です。

何か問題が起こった時、その問題をキレ者が対処すれば丸く収まった。一般人が対処したら代償が大きくなった。古来の地政学的な課題からキレ者が処理できる問題の範囲は決まっていました。

しかし、DXで地政学的な課題が解消されれば、キレ者が処理できる範囲が相当広がります。ただし、これは問題をキレ者が独占するということではありません。問題は結果を出すための宝庫です。それをキレ者が独占しては、今までと変わりがありません。そして、そもそもキレ者が持てる時間は平等に1日24時間なので、いくら地政学的な課題が解決されても、処理できる問題数はある程度は増えてはいきますが、全てではないのです。

問題点はその日の処理数ではありません。そしてDX の特徴はシェアです。

つまり、キレ者の経験や知見をナレッジとしてデジタルデータで保管が可能です。キレ者はこれまでにない問題にだけ取り組めばいいのです。彼らも「理解の悪い一般人からの重複する問い合わせ」から解放されるのです。

キレ者は広い意味でのデータと言える

データの時代なんて言いますが、それはもちろん市場データというものを収集する意味合いで使われます。しかし、より広い解釈で言えば、キレ者が蓄積したナレッジが大量に誰かにシェアれる形になった時、それはもはやデータの一部と言えます。

データの民主化が実現した場合、それは同時にキレ者も民主化できるということです。どのくらい先の話かはわかりませんが、そう遠くないと思っています。

この時、我々は我々自身についての新たな評価軸を求められると思います。キレ者かどうかはもちろん重要な要素であり続けます。しかし、キレ者を使いこなしたかどうか?も判断軸になるかもしれません。いかにキレ者を助けたか?も大事になるかもしれません。もっと言えば、いかにキレ者を浮世離れさせなかったか?孤独な独りよがりにさせなかったか?という軸が出てくるかもしれません。

そうなれば、それはもはや、いかに他人に献身的に貢献したか?という評価軸になるのかもしれません。というか、そういう社会となることを目指したいと思っています。

こういう内容について批判的に見れば、なんとも曖昧な仲間内のなぁなぁ感じが出てきてしまいます。昭和の、平成の会社では、時にお友達人事で出世した人も少なからずいたでしょう。その弊害も確かにあったでしょう。一方で、適切なお友達人事、お友達作りの大切さを重視した人事、という側面は、弊害以上に良い面をもたらしていた可能性は否定できません。

今は、この良い面だけを抽出できる仕組みや土壌が整いつつあるように思っています。これを有効活用しない手は無いのかなと思っております。

それではまた。

(※なお、今日の配信を明日月曜日分の配信とさせて頂きます。)





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