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片山真理 個展 [CAVERN] -美,身体,独立と選択肢
片山真理 個展、[CAVERN](-2023/06/24)。場所は西麻布交差点のギャラリー、GALLERY ETHER。
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その作品をはじめて観たのは、森美術館だ。
「完璧とは?」 をストレートに問いかけられた。セルフポートレートで表現された作家の身体は確かに欠損してた。しかしながら、身体はさまざまな人工的なパーツによって補完、装飾され、1つひとつが美しさにあふれていた。そして身体そのものも、ほかのものと同じひとつのパーツにすぎないように思えてきた。
片山の作品は自宅で撮られたポートレートに代表される。義足へイラストや手芸を用いた装飾を施すなど、自身の身体的要素をモチーフとする[2][4]。シャッターを押すことは身体性と関連するとし、自分でシャッターを押すことにこだわりを持つ。また、素材としての自己像として黒髪のおかっぱ、切れ長のメイク、赤いネイルと口紅、ハイヒールなどの記号を用いる[6]。
ちなみにウィキペディアにもあるように、作家は、たくさんの記号を纏ってセルフポートレートに登場する。
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「正しい身体」とは?
本展は、近年4年間片山が制作してきた〈just one of those things〉、〈leave-taking〉、〈possession〉、新作となる〈Calypso〉、〈study for caryatid〉、ドローイングを中心として構成されます。
(中略)
2011年に始めたハイヒール・プロジェクト の再開とともに制作された〈just one of those things〉(2021)は、社会規範や「正しい身体」に対して、選択肢を増やすこと、諦めて良い自由はないことを私たちに訴えかけてきます。そして〈leave-taking〉(2021)、〈possession〉(2022)では、他者に貼られたラベルと、自分が自身に貼ってきたラベルを「手放す/所有する」という行為そのものを問い直します。ある理想的な身体を作り上げるために用いてきた片山自身の身体とオブジェの関係に問いを投げかけることは、オブジェを通して自己の内側と対話することでもありました。
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ハイヒール・プロジェクト
作家が2011年から手掛けてきたプロジェクトのステートメントは下記。
作家は大学時代、シンガーとしてジャズバーで働いていた。客のひとりが野次を飛ばした。「ハイヒールを履いていない女は、女じゃない」と。
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通常義足はハイヒールを履くのに適した足の形状で作られておらず、ハイヒールも義足に耐えうるほどの耐久性を持っていない。片山は義足でハイヒールを履くために、義足の特別な足部を取り寄せ、ハイヒールを製作し、それらを履いて街を歩きステージに立ってきた。
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同プロジェクトについて、作家はインタビューで下記のように語る。
ハイヒールのシルエットや、ハイヒールから伸びる脚の形、筋肉、歩いている姿はすごく美しくて憧れの存在だったけれど、わたしには履けない。昔、母のハイヒールに脚を入れてみたことがあったんですが、それを見た母がすごくショックそうな顔をしていて。その顔を見たとき、「ああ、ママを悲しませちゃった」と、とても悪いことをした気分になりました。それで、「履けなくても別にいい。私、欲しくないし」って諦めたんです。でも、その後大人になり、歌手のバイトをしていたジャズバーで酔っ払った男性客に「ハイヒールを履かない女は女じゃない」って言われたとき、本当に悔しくて。それがきっかけで2011年に「ハイヒール・プロジェクト」を立ち上げ、ハイヒール用の足部をアメリカから取り寄せ、わたしのためのハイヒールを作ってもらい、歩行訓練をし、最後はそれを履いてバーのステージに立って歌ったんです。今になって思うと、女として勝ちたかったのかもしれません。とにかく、そうしてハイヒールという新しい選択肢を手に入れてはじめて、履かないという選択に意味が生まれるんだと思いました。
ハイヒール・プロジェクトではVOGUE JAPANがメディアコラボレーターとなり、セルジオロッシによるハイヒールが完成した。
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「ハイヒールを履いていない女なんて女じゃない」──片山がバイト先のジャズバーで酔った客に浴びせられた暴言がきっかけで始まった当プロジェクトは、最初から、美しいハイヒールを履いて歩きたいという片山の個人的な「夢」を叶えるためのものではなかった。そして今回、セルジオロッシが作った美しいハイヒールもまた、片山の夢を作品にするための単なる小道具ではない。
(中略)
「実は私、ハイヒール・プロジェクトをやるまでは『自分が障がい者であること』をあまり意識したことがありませんでした。ですが、このプロジェクトに取り組んできた10年の間に、日本の社会の中で、義足ユーザーであるアーティストとして私が置かれている立場を自覚するようになりました。それまでは、障がい者という枠で展示会に呼ばれたり、義足のモデルとして出演オファーが来ると、私じゃなくてもいいよね? と突っぱねていた部分があったんです。でも、義足ユーザーだから見える社会の不便さは、実は義足に関係なく、いろんな人に共通するものだと気づいた。小さな世界で起きていることが、実は大きな社会の構図を表しているのだと強く感じるようになりました」
【片山真理のハイヒール・プロジェクト Vol.6】
テレビ的表現にたとえれば、BGMが流れて「彼女の夢が叶いました!」…的な世界「ではない」。
(もちろんそうあってもいいのかもしれないが)、そうではないということが示されると、作家の作品世界の、その世界観がしっくりとくる。
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「オブジェとの秘密の関係」
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片山は、自身で手縫いしたオブジェや、義足などを用いて演出を施したセルフポートレイト、またそれらによるインスタレーション作品を制作してきました。とりわけ、2019年に群馬にアトリエをもってからの4年間、片山は身体と作品の関係性、そしてそれらを取り巻く社会について集中して取り組んできました。この4年間を片山は「洞窟のよう」と語ります。洞窟は、外界との接触が絶たれた空間でもあり、叙事詩『オデュッセウス』の中でカリュプソとオデュッセウスの物語の舞台となる神秘的な空間でもあります。
この洞窟という暗闇の中で、片山は手探りしながら、オブジェとの秘密の関係を作り上げてきました。2011年に始めたハイヒール・プロジェクト の再開とともに制作された〈just one of those things〉(2021)は、社会規範や「正しい身体」に対して、選択肢を増やすこと、諦めて良い自由はないことを私たちに訴えかけてきます。そして〈leave-taking〉(2021)、〈possession〉(2022)では、他者に貼られたラベルと、自分が自身に貼ってきたラベルを「手放す/所有する」という行為そのものを問い直します。ある理想的な身体を作り上げるために用いてきた片山自身の身体とオブジェの関係に問いを投げかけることは、オブジェを通して自己の内側と対話することでもありました。
(後略)
身体+パーツの連結
作品から社会的なメッセージを受け取る人もいるかもしれないし、わたしのように、ただ美しさに溺れる鑑賞のしかたもあるかもしれない。
それに加えて、わたしが改めて感じたのは強さだ。身体は身体として、あくまで自らが主体として立っている。道具に頼ることはあっても、それは例えば、歩くときに必要だからであって、それぞれ独立したパーツだ。身体に連結する、それによってまた新しい美が生まれる。
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だから、作家の作品を通じて「身体とは」?という問いを受け取ったならば、意識と一体化している自らの身体にも目をやる。
例えば、歩くということにおいて、自分と、この靴の境界線は? というように、観る者は深く深く、考えていくことができる。
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