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「光のほうへ泳げばいい」と知って、沈んだ心は浮上した

先日、この記事を書いたあと
亡き愛猫小次朗の写真を整理することになった。

かわいい姿をたくさん見るのがまだつらくて
手つかずのままだったのだけど

夫と話しているうちに
「子猫の頃の写真も、
全部Googleフォトにアップロードしておこう」
という流れになって

その作業ついでに二人で
小さい頃の姿を懐かしむことになった。


大量の画像が処理されるPCを横で見ながら
かわいい、かわいい、
天使みたい、と
ただのヤバい親バカになっていたら

「こじが料理を見てる動画があったよ」と
うれしそうに夫が
別のPCで動画を再生し始めた。


15年前のガラケーで撮ったらしい、
画像の荒いその動画には

わたしがフライパンで何かを炒めているのを
シンク上のカウンターで
見ている小次朗の姿があった。


まだ1歳くらいで若く、
興味津々な様子でうろうろ動き回っている。


(火に近づいたら危ないな)と
思いながら動画を見続けていたら

動画の中の小次朗は
カウンターからひょいと降り、
火のすぐそばまでやって来て
まな板からなにかを食べようとした。

あ、と思う間もなく

動画のわたしは、
小次朗の頭を軽くはたいて
それを阻止していた。


え!!!!????


ウソでしょ???!!!!


なに、頭はたいちゃってんの???!!!!!


かなりびっくりした。


自分の行動でありながら
記憶からすっかり消し去られていた。
ヒヤ〜っとした。
血の気が引くってこのことだ。


いや、こわい。


小次朗の頭をはたくとか、
こわすぎて今は絶対できない。いないけど。


動画の再生途中で
「信じられない、悪かったね、ごめんね」と
骨壺に向かって何度も謝った。



火傷の危険から守るのと引き換えに
咄嗟にそうしたのかも、と思いたかった。

でもたぶん、
あの頃はおそろしいことに、
「ダメ」を教える方法のひとつとして
その行為を何の考えもなく採用してた。


きっとわたし自身も
心の中で
「自分の頭をはたくようなこと」
(キツくなにかを禁止したり、ダメ出ししたり)を
平気で、なんの考えもなく、
やっていた精神状態
だっただろうなと
15年前を振り返った。

なにかを愛するということについて
相当、未熟者だった。へこむ。


「もう一回、小さいこじとの生活を
イチからやり直したいよ」と
後悔の念を夫にこぼすと

「いや、俺もそうやって躾をしたことがあったよ」と
同じくしょんぼりしていた。
未熟者ふたり。



猫との暮らしと子育てを
一緒に語ってはいけないと思うけど

たまにクライアントさんから
子育ての後悔の話を伺うことがある。

「もう一度あの頃に戻って大事に育てなおしたい」と
涙ながらに仰る方もいらっしゃる。

もしかしたら
あの方も、あの方も、
こういうお気持ちだのか…と
思い出したりした。

みなさんその時の精一杯をなさってるし
そう振り返ることができること自体
愛の証じゃないですかね、と思っていたけど

自分のことは、まだショックすぎて、
すぐにそうは思えない。


でも
後悔しても、もう小次朗はいない。

写真に向かって
「ごめんね」と謝罪することはできるけど
もう一回やりなおすことは不可能だ。

自分の未熟さへの自責の思いと
愛する存在にイヤな思いをさせたという罪悪感
挽回ができない無力感で
心が沈む。

そんな気持ちで
Twitterのタイムラインをぼーっと見ていたら
これが流れてきた。

「すべての親は、子どもに傷をつけて生きていく」

岸田奈美さんは、そのことについて
どう感じているんだろう、と興味がわいた。
(わたし、キナリマガジン読者でもあるし
奈美さんの大きな愛や感性が好き。)

わたしは小次朗と親子じゃないけど
傷つけてしまった、という自責の思いを昇華する
なにかのヒントがあるんじゃないかと
すぐさま開いて読んだ。


(全文はぜひリンク先にどうぞ)


村上春樹さんも、
村上春樹さんの父も、
岸田奈美さんも、
みんな傷の輪郭を知って、そこから光を見つけていた。



傷のかたちを知り、確かめていくということ。

かたちを知った傷は、暗い海のなかで
灯台になりうるということ。

闇の中でも、光のほうへ泳いでいけばいいこと。


最後の章のこの言葉に、
わたしは救われた思いがした。



今回わたしが見いだせる光はなんだろう。


あの頃のわたしは自分の未熟さゆえに
小次朗を傷つけてしまったけど

長年の暮らしの中で
相手(猫だけど)を大事にするやり方を
ゆっくり時間をかけて学ばせてもらった。
人として多少は成長させてもらった。

あの頃よりは、今は相手を大事にできる。はず。

小次朗には直接やり直してあげられないけど
少なくとも
今いるみやびをもっと大切にすることはできる。
もし「ダメ」を教える機会があったとしても
(もう老猫だからほぼないけど)
違うやり方ができる。

なぜなら、
自身の未熟さや無知、
痛みのかたちがわかったから。
それが、わたしにとっての「暗闇の中の光」だ。

自分の未熟さや
無知や
ダメ加減を知るのは、痛い。

それが大事な相手を傷つける元になっていたら、ダブルで痛い。


でも、未熟であったということを
罰し、批判し、
自分を責めるために使うのではなく


常に人は未完成だからこそ、
今ここから地道に成長していこうよ、
わかったつもりにならず知っていこうよ、
間違えたら謝ろうよ、
人類みんな成長の途中なんだからさ、と

受容と許しの目で優しくみていくと
自分がほっとする。

ほっとしていたほうが、
「未熟者め!」と自分を責め続けているより
成熟する。
責め続けていると、
それがつらくて光を見いだせなくなってしまう
んだ。


もしかしたら、
動画の記憶が無かった理由も
潜在意識下で自分を責めて
封印してしまったからなのかもしれない、と
ふと思った。
出てきてよかった。
初めからうまく小次朗を愛せた人間ではなかったことを
思い出せて心底よかった。




小次朗に直接罪ほろぼしができない代わりに、
成長させてもらった恩を
形にして次世代に送ろうと思う。

みやびや、ほかの人や存在を
大事にする方向を見続けることや、
いろんな輪郭を知っていくことで、恩送りとしよう。


それが
今回の件でのわたしにとっての
光に向かって泳ぐこと。


光が見えたら、沈んだ心がほっと浮上した。


【心の筋トレ その8】
傷を通して、灯台になるような光をみつけ
どこに向かいたいかの目印にする。


















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