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自己肯定感の違和感

「自己肯定感」最近よく聞くワードです。私自身、自己肯定感をあげようあげようと思って意識してきた様に思います。過去の記事でも何度か取り上げました。でも、自己肯定感に関する本は一度も買ったことがありません。ADHDなので、ワークなどを買っても続かないという先入観もありました。気にはなるけど買うには至らない自己肯定感の本。何故かなと思っていた理由がわかりました。

自己肯定感と生きづらさは別物である

よく生きづらいのは自己肯定感が低いせいという主張を見かけます。私もずっとそうだと思っていました。確かに自己肯定感が高い夫はとても楽しそうに生きています。そういう夫を見ていて、自己肯定感を高くすれば生きづらさを感じないようになると思っていました。

夫と離婚寸前の状態になって、初めて真剣に向き合ったところ、全く話が通じないのです。生きてきた背景が違う、考えてきたことも違う、人間だということ以外何もかも違うのではないかと思うくらい話が通じませんでした。同じ言葉を話しているはずなのに何も通じない。

自己肯定感が高い夫は自己肯定感が低い私の事を何も理解できませんでした。厳密に言えば、理解して苦しみを受け入れることを拒否しました。夫が苦しむことになるからです。つらさ、苦しさを避けて生きることができた、それが自己肯定感の高い夫の正体でした。こんな書き方をしていますが尊敬するところが沢山あって、とてもよい人です。

私の自己肯定感の低さはADHDや両親の不仲によるものだと思われます。ダメ出しによって自己肯定感が下がり、自己肯定感を下げておくことでこれ以上のダメ出しを避ける、いわば、生きていくための知恵としての低い自己肯定感です。

反対に、夫は自己肯定感下げる必要がない位、親に怒られたことがありません。発達障害的な所は沢山有るのですが、それをとがめる人が誰もいません。その行動が問題視されず、むしろ周りが後押しをしてしまうのでますます自己肯定感が上がります。そして、問題行動をとがめる人がいないので、障害にもなりません。

実際に私と夫を比べてみて、真面目に社会のルールをキチンと守って生きているのは私です。自己肯定感の低い人間は家庭のルール、社会のルール、しまいには暗黙のルールや自分のルールを厳密に守ろうと努力し、そしてそれを他人にも求めてしまうために生きづらくなってしまうのかなと思います。夫にはそれがありません。最低限の社会のルールのみで、それ以外のルールはほとんどなくある意味自由です。そのかわり、自由の結果の不具合も自分の責任として引き受けます。

自己肯定感の低い人たちは、自由を放棄するかわりに、自由から生まれる責任も放棄してきたのだと思います。なぜなら、そうすることで生きやすくなったからです。生きやすくするためにしてきたことの結果が、自己肯定感の低さなのです。

「自己肯定感が低い=生きやすい」という時期が存在するんです。

そして大人になって、ある程度自由になった時にそれに対応する責任が子供の時以上に大きくなっていてどうしたらよいかわからなくなったり、今まで自分が従ってきたルールが足かせになったりして、生きづらさを感じるようになってしまいます。

自由が増えると「自己肯定感が低い=生きづらい」になるのです。

水をかえた直後、金魚が弱ってしまうことがあるように、環境が変わると今まで生きやすかった方法では生きづらくなってしまうのです。例えそれがよい環境であったとしても。

そのよい環境に適応するために出てくる本が「自己肯定感を高める本」です。正確にいうならば、「悪い環境で育った人がよい環境に適応するための本」です。だから、これらの本はまだ悪い環境にいる人にとってはあまり役に立たないのです。

本当の自己肯定感とは?

「自己肯定感を高める本」を利用して、生きやすくなるのであればそれに越したことはありません。でも、引っ掛かる部分もあると思います。「自分によいイメージを持つ」「目標の人を真似する」など、実践的ではあるのですが、そうなると今までの自分はどこにいってしまったのか、肯定しているものは自分ではないのではないかと泥沼にはまってしまうことがあります。

自己肯定ってなんだろうと考えたときに、究極的には「自己肯定感の低い自分も含めて肯定する」ということになります。夫の私に対する理解拒否によって、「私の体験やそれに対する感情は自分しか持つことができない」ということがわかりました。つらい体験だったとしても、これを持っているのは私しかいない。本当に理解できるのが自分しかいないのならば、自分が自分に「よくやってきたな。頑張ったな。生きてるだけでえらい」と認めてあげるしかない。それが自己肯定なんだと思います。

その上で、よい環境に移るかどうか、よい環境に適応する努力をするかどうかを考えたらいいと思います。変わってもいい、変わっても自分が選んだことなのだからそれは自分なのだと認めることができたら、それはそれで素晴らしい。

変わらない事を選ぶのもまたよし。身を削って作品を作るミュージシャンや小説家、役所で自分の意見をまくし立てる人、マスクに反対して大ごとになってる人、生きづらそうだけどみんな自己肯定感は持っている様に見えます。

自己肯定感と生きづらさは関係があるけれども別なもの。それが私の中での今の答えです。自己肯定感が低い自分もOK。許します。

サポートがわりに地域のおいしいものを食べて、それを教えて下さい。近くに行ったら私も食べます! ちなみに私の好きなものは岩手県の田村の梅と長崎県の角煮まんじゅうです。 コロナのせいで各地のおいしいものが消滅してしまうかもと心配しています。みんなで守ろう、おいしいもの!