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道と武士

個体差を無視した合理の進んだ社会で、道の概念が薄らいでいると思う。
7割が余っているヒトで構成されている日本において、私は余っている側であるし、夫も娘も息子も余っている。
私は米を作ってないヒトは余っているという認識を持っているから、日本はとても豊かであって幸せだなぁと感じる。

余っているヒトが増えるとろくな事がおこらないことは歴史と現在の世界情勢が物語っているが、それを治めるのが宗教や道徳だ。もしかしたら音楽だったりもする。

日本の宗教観は面白いが共通認識が共同体としての国を作るならば、道の概念は興味深い。

だから道についてnoteを書こうと思う。

結論からいうと、美味しいごはんを食べて、咀嚼して残るものの大抵は愛である。

私の義父はイスラム教だから、毎時刻お祈りを欠かさない。
おばあちゃんは先祖に向かって毎日家のご飯をモリモリよそって、鐘をならして何か唱えている。
母親は自分の神と繋がっているらしいし
夫はキリスト教になりたいと言っている。

私は基本的にどれにも介入せず、
そうなんだなぁ
という立ち位置にいる。

日本は独特な宗教観で、八百万の神はいるが、いわゆる一神教のように国として全員が心より崇める共通した神がいない。
にもかかわらず、とても平和で秩序がある。
なぜだろう。

それは道を大切にしてきたからだ。

道とは何も深い話ではなく、実際の道もそうである。
かつて日本は土地本位主義だった。
バブルが生まれるほどの土地信仰。
その土地を価格づけるのが道である。

道ありきで国ができている。
建物よりも道が大切だと、国土交通省の路線価をみて感じる。
街並みも前面道路幅から建物の高さを決められているし、産業も道ありきで発展する。
半導体も水産業も街づくりも世界も歴史もヒトの繁栄も技術の発展も全て道ありきであるから、学校では道についてとても深く学んだはずだ。

道の考え方は色々な角度で観察するととても面白い。

いつもヒトは選択の連続をしている。
選択とは海外の考え方であるが、日本でいうところの道である。
道の選択の連続である。
別れている道を選び取って歩んだ先が人生を形作る。というと大業にきこえるが、それは些細なことからはじまる。
1日の選択は朝の目覚ましを止めて起きるか、そのまま寝続けるかから始まるし、無限にある選択の道をヒトは無意識に選び取って歩み続けている。
そして、歩んだ道が辿り着く先はヒトの人生が終って初めてわかるという面白い仕組みになっている。

だから、ヒトはヒトの道を選ぶ必要があるし、ただ歩むだけでなくその道を整備して綺麗にすると面白かったりもする。

あの日見た綺麗な道をとてもキレイと感じられるのは、綺麗でない道を歩んだからだ。
真水の美味しさは泥水を啜るとより美味しく感じる。
道を整備してくれた先人にも感謝できるし、人生の序盤に自身も道の整備に労力を割いておくと豊かさや感動が大きくなることもある。

武士道

花道、柔道、剣道、書道、たくさんの道があるがどれも本質はその"技術"を得ることではない。

今回はさまざまな道がある中で、武士道を特筆したい。
歴史の中で士農工商という制度から生まれた武士道とは、身分制度の上に立つためのヒトの手本となるように考えられている。

だからこの話はヒトの上に立つヒト向きなのかもしれない。

孔子は「君子はまず徳を慎む。徳とは本なり、財とは末なり」という。
ヒトは徳を積むことから始め、お金は最後だという話であるが、これは武士道に通じる。

愛、寛容、他者への同情の意味の憐憫(れんびん)は至高の徳と認められてきた。
愛は与えるものである。
自己犠牲を孕む行為は時に狂気に映るかもしれないが、しかしそれは誰にでもできることではないからとても美しい。
狂気のある愛はすごいなと最近思ったりする。

儒教は仁義礼智仁が核となるが、武士道も5つの要素から成り立っており、それは義、勇、仁、礼、誠である。
この5つの要素を考えてみる。

天下を治める者の不可欠要素に仁が必要であるのだが、仁とは他人への親愛の情である。

高潔な義と厳格な正義を男性的とするならば、仁は優しく、母のようである。
義に優れば固く、仁に優れば弱くなる。
しかしもっとも剛毅なる者は、最も柔和な者である。
儒教の教えの最重要とされる仁という優しさは、愛ある者が勇敢であるのは普遍的な真理であるために、武士道にもきちんと盛り込まれている。

留意する点として、慈悲は盲目的衝動ではなく正義に対する適切な配慮を認めることであることであるから、切る時は切らねばならない。
それが秩序だからだ。

礼は共感性をもつ愛である。
礼儀とは、慈愛と謙遜から始まるからである。

私は茶道を数年間習っていたが、礼に始まり礼に終わる作法は武道と通ずるところがあるように思う。
相手への敬意を示すことが何よりも重んじられるからだ。
最初はなぜこのような所作を覚えなければならないのかわからなかったが、一連の無駄のない動作が身につくと合理的であった。
行動が無意識にできると思考に時間を割くことができる。
おそらくそれは、お坊さんの修行などに通じるところがあるはずだ。
定められたとおりの方法が結局は時間と手間を省く最上の方法であり、行動を習慣にすると習慣に割く時間は合理化される。

茶道は細やかな動作の中に、儀式と礼と時間がある。
乱世の時代に、刀を置かねば入室できない部屋の静かな空間で精神を陶冶(とうや:練り上げる)する。

礼の厳しい遵守に伴う道徳的な訓練である。

嘘やごまかしは臆病であり、大罪ではなく弱さであるか、または脳の欠陥である。

誠でなければならない。
断言したことが真実である。
武士に二言はないということのように、約束はおおむね証文無しで決められ、かつ実行される重みをもつ。

商人道というものは社会的身分階層の最下位と定められた当時の思想なので、武士と商人は全く違う。
商人の精神性と武士は対極にある。

武士道の道徳"義 勇 仁 礼 誠"は、(誠以外)商業で直接通用しないのだが、お金儲けに適さないのは、富と名誉は異なるからであり、また、富と権力を切り離さなければ腐敗するからだ。

誠以外、と書いたが、誠であることもそもそもは商業でも通用しなかったのは面白い。

商売というのはいかに安く仕入れたものを(粗悪品であっても)高く売ることでの差額が利益になるからだ。
しかし正直であること、つまり誠は富をもたらす実益のある徳であることがひろまった。
これは近代産業が発達したからであるといえる。

正直であるラテン語とドイツ語の語源は、名誉となる。誠とは正直で、正直とは名誉のことである。

ブランド

正常な良心は要求されたところまで上昇するし、下降もする。
それは職業に従うものは、道徳までをも職業の世間的な印象に合わせるからだ。

ブランドは不思議だ。
そのヒトがつく職業も住んでいる場所もブランドである。

日本の母親が母親というブランドイメージで自ら進んでキャラ弁を作るのと似ている。
イギリスに住んでいた頃はサンドイッチとジュースとフルーツ、時にはポテチ。それはそれで許されるし合理的だった。

あくまで日本で手の込んだ料理を作ってしまうのは、期待と要求があるからだ。

ダメな奴とイメージつけられたらダメになるし、素晴らしい人だと思われたら素晴らしい人としての振る舞いをする。

ヒトは他者から期待された行動をとるからであり、イメージはその点でとても大切である。
だから自分を枠にはめる行為は楽になれるはずだ。

名前をなくした私は一時期とても不安定になった。
今も自分が定まらずどこかふわふわしているのは、完璧な母親にも妻にも仕事をするヒトにも、何者かになれていないからなのかもしれない。


女性が苗字を変えて家に入る儀式は従属的にさせる。
例えば芸名を定めるのもなりたい自分になるためには必要な儀式だと思った。

泉を覗くと何が見えるのだろうか。
鏡のように反射するか、水のように手応えがないか、濁るか、色が変わるか、覗いた人次第なところがある。

廉恥心という感性を育てる教育、「恥ずかしくはないのか」などという言葉は過ちをおかした少年の振舞いを正す切札であるゆえに、「恥を知れ」を校訓に挙げる学校が私の近所にある。恥を教えてくれる。

恥という概念は、道徳意識の始まりである。
その概念を徹底させることはヒトの土壌を耕やすことにつながる。
若者が追求しなければならない目標は富や知識ではなく名誉であるから、まず恥を知ることは土台となる。

そして普段見せないヒトの恥ずかしさの共有は、実は愛を得ることにもつながったりもする。

死を持って救われるヒト

死は現代において悲惨や哀しみと捉えられる側面もあるが、救いでもあることは以前noteに書いた。
キリスト教的な死の概念からも見ることができる。
死が救いという概念は日本の武士道にも見出すことができるが、苦痛を避けるというよりは恥、不名誉を免れるための救いである。

そのための儀式が切腹だ。
切腹は名誉を保つための死であるために、死罪という側面もあるが、自分が責任を感じ切腹相当であると思えば腹を切った。
しかし壇ノ浦の合戦で平氏は入水の方法を選んでいることと、700年前の鎌倉幕府滅亡時の北条氏の200名を超える切腹から、この様式が鎌倉時代以降に定着したと考えられている。切腹が選ばれたのは武勇の誇示がわかりやすいからである。

生きることが死ぬことよりいっそう困難な場合はあえて生きることが真の勇気だったりもする。
絶望も呪いも面白さにして笑ってくれる他人に救われたりもするし、きっと世界には今日も誰かの悲しみを笑いに変えている人がたくさんいるんだろう。
笑うといい。
学校の英語の授業で、laughter yoga(笑いヨガ)の話があったことをなぜか思い出した。
無理にでも笑おう。

おまけ 自己否定と内助

ドイツのカイザー皇帝は女性の活動範囲を「台所」「教会」「子供」の三つに制限したが、武士道は制限せずとも家庭的であった。

私が幼少の頃、男尊女卑のお爺ちゃんが義父だったことがある。
席順、お風呂に入る順番、あいさつ、全てにおいて長女の私は1番最後で、おまけにお皿洗いや炊事、掃除を任された。
弟は、テレビのよく見える席で優雅に私がよそったご飯を待つ。おもちゃもたくさん買ってもらえて、確実に差をつけられた。
だからその義父が亡くなった時に弟はたくさん泣いていたが、私はただ義父の死というものに冷静だった。

当時の学校教育は男女共同参画社会の女性と男性の平等について学んでいる最中だったので、家庭の方針と社会の方針のずれが歪に私を形成した。

しかし結果的に従属的な奉仕の方法を学べて大変良かったと感じる。
武家の女性は幼い頃より自分自身を否定することのみを教えられるために、自立ではなく従属的な奉仕と献身の一生となる。
女性が家庭を築く基礎となるから、小学生の当時にはわからなかったことがオトナになって理解でき、今となっては感謝している。

武士は自己自身を女性の有する弱さから解き放ち英雄的な武勇を示した女性を讃えるが、武芸習得の主な動機は戦うためではなく個人と家のためである。

女性の武芸の家庭における効用は、息子たちの教育につながる。
さまざまな芸事は、常に道徳的な価値のために習うことであり、見栄や奢侈のためのものではない。
家を治めることが女性教育の理念であったためであり、女が生命を棄てるのは家名のためだからだ。
娘は父のため、妻は夫のため、母は息子のため自分自身を犠牲にした。

女性が夫や家のために命を捧げることは、男性が国や主君のために生命をかけることと同様である。

どうせ犠牲になるなら、犠牲になってもいいと思える男性のために尽くそうと18の時に婚活した記憶がある。
そして婚活して最初に出会った彼と予想外で不本意な結婚をしたが、とても尽くした。
そして13年が過ぎた。

あの時は色々なことを考えていた。

女性の自己否定は、男性のいうところの忠義であり、家を治める基調である。
女性が男性の奴隷でないことは、彼らが封建君主の奴隷でないことと同じである。

女性が自己を棄て、夫がそれにより主君に生命を捧げ、主君は天に従う。決して恐怖政治的であってはならないし、強要してはならない。自らすすんで徹底した自己犠牲の精神を保つと良い。


階級と女性

何をもって男女を平等とするかは法の前にだけでしかないが、それは基本的な身体の作りや役割が違うものを平等に扱うことは困難であるためである。
以前少子化について考えた時に詳しくnoteにまとめたので男女平等については割愛する。

当時の社会的身分が低いほど、女性と男性は対等となり得る。
だから商人の夫婦の家庭内の力関係は対等であったはずだ。

また、有閑である貴族は男性が女性化するために、女性との差は生まれにくい。
貴族的男性は女性との話に花が咲きやすい。

武士は家に居ないし、武士の妻は自己犠牲のために自由ではない。
そして女性は社会や政治で重宝されないが、男性が戦で居ない家を任されるために家庭内では尊厳を得られる。
貞操は武士の妻にとってはもっとも貴ばれた徳目であって、生命を賭しても守るべきものとされていたのは御成敗式目にも読み取れるが、貞操を守ることは家を守ること、夫への忠誠の現れであるためだ。

貞操と家
私よりも可愛くて若いヒトが溢れる世界

昔の日本社会と現代の西洋化

転換期のなかのマイノリティーな生き方は時々苦しくて、外の空気を思い切り吸いたくなる衝動に駆られる。

一時期、ずっと夫の幸せを考えていた。
私でない別の人と過ごしたほうが幸せになれるならその方がいい。
一刻も早く行動すべきである。

財産はいらなかったから、署名と判子だけを求めた。

彼は彼に見合う若い女性を得た方がいいのではないかとも考えたし、現在の夫の収入で再婚は容易であろう。人生の新しい道を作るなら、双方が1分でも若い方がいい。

音楽

一人の賢人がいれば、全員が賢くなる。

闘争本能の元は愛であるが、闘争そのものは残忍性を孕む。
アルカディア(ギリシャのペロポネソス半島)の憲法では30歳以下の青年は音楽を学ぶように命じているが、気候からくる残忍性の緩和が目的である。
音楽や詩を詠むことはヒトを穏やかにさせるし、音楽が嫌いな人はいないと思う。
録音再生技術がなかった昔と比べて手軽に音楽に触れ合うことができる現代はとても豊かだなと感じる。
詩と曲調に誰かを投影させるとより豊かさが増す。

戦いの恐怖の真只中で他者への哀れみの心に貢献したのはヨーロッパにおいてはキリスト教であったが、日本においては音楽や書に対するたしなみであったし、現代でも音楽の力はとても大きい。
最近は音楽の良さを再認識している。

豊かさと道

歴史上の進歩とは、少数の人が大衆を最善の方法で指導し、支配し、使役しようとする競争によって生み出される。
だから、福祉と幸福を願う善意と、規律がなければならない。

武士は与えられた土地から禄を得るし、その気になれば土地があるので農耕もできる。
経済的に自立できる身分が、高い精神性を築きあげる土台であるが、ヨーロッパのように貴族がお金儲けに走るわけでなく、足ることを知り、豪奢にならないように務めた教えはすごいと思う。
あまり富を守ろうとするとハプスブルク家みたいな滅亡の仕方をしてしまうこともある。

奢侈は人格に影響を及ぼす最大の脅威であることから、訓練のために倹約令を出した武士。
当時の国の公務に携わる人びとが、他国とは違い長い間堕落を免れていた事実は、富を賤しさとし、権力と切り離したからである。

損得勘定をすることはかえって遠回りになることがあることを武士道は実践していた。
非合理である徳や愛を追求することにおいてとても近道だなと感じる。

幸せ

個人主義は妻と夫が二人のヒトであると考え、武士道では夫婦は二人で1つと考える。

精神的な価値にかかわる仕事は、たとえば僧侶、神官、教師などの報酬は金銀で支払われるべきものではない。
無価値であるからではなく、価値がはかれないほど貴いものであるからだ。
贈り物を"つまらないものですが"と言いながら渡すことに似ている。
この言い方が適さなくなってきたのは謙遜を読み取る必要がなくなったことと、グローバル化が進んだためである。
辿り着く場所は同じだが、西洋の言い回しと日本の言い回しで道のりが違う。

愚妻、愚息と呼ぶことも今ではほとんど無くなったが、人前で悪く言えるというのは根底に絶対の愛があるからできる行為である。

私の新しい道は以前より少し歩きやすくなって、好きな人に気軽に会いにいける。
最も自由で豊かになった。

幸せと思わせてくれる相手の存在がいるのは嬉しい。

昨日食べたヘレ肉と今日食べたカレーは幻だったが、存在が疑わしいほど珍しい美味しさは基本的に愛でできている。

脚力を鍛えて道を歩いて、美味しいものを食べて生きていけることが幸せの真理

こんなに長い文章なのに、最終的には食べ物と愛だった。

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