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二歳児警察官[私小説/ショートショート]

 「あ!犯人が逃げたじょ!」
 事件は唐突に始まった。犯人からすれば、それは周到に用意した予定通りの犯行かもしれない。だがそれ以外の人々にとっては、それは常に突然の出来事なのである。

 「犯人逃げちゃったの?どうしよう……」
 困り果てた女性に、女児が声をかける。
「警察を呼ぶんじょ!」
言われるがまま、女性は警察を呼んだ。
「助けてー!娘ちゃん警察ー!」
女児はその言葉に呼応するように、その場で時計回りにくるくると回転し始めた。さながら、魔法少女の変身シーンのようであった。
「娘ちゃん警察だじょ!」
舌足らずな女児は警察官へと変身を遂げた。そう、彼女の真の姿は、家庭の平和を守る警察官なのだ。普段はただのちょっとぽっちゃり二歳女児である。だが、家庭の平和が脅かされたその時、警察官へ早変わり。正義の鉄槌を下すのだ!
「犯人待て待てー!」
警察官は大声を上げて犯人を威嚇した。
「一緒に犯人を追うじょ!これに乗るんだ!」
女性に協力を要請し、そのままある乗り物への搭乗を促す。その乗り物とはトランポリンだ。これはこの警察官の秘密道具の一つである。トランポリンに搭乗することによって、跳躍力を上げ、脚力を増強し、速度を飛躍的に向上させるのだ。
「走れー!」
警察官の声に合わせ、女性も共にトランポリン上で駆け足をする。
「犯人はどこですか!?」
そう、女性は犯人を見ていなかった。このままでは、一体誰を追ってどこに向かっているのかわからない。
「あっちだ!」
警察官の指さす方には乳飲み子の男児がいた。男児はこちらのトランポリンに乗っている様子を真似て、ベビーサークルにつかまり立ちをしながら素早く屈伸運動を繰り返していた。いかにもスクワットである。彼は満面の笑みであった。
「あの赤ちゃんですか?」
「違う!赤ちゃんは赤ちゃん!犯人じゃありましぇん!」
たしかに、赤ちゃんには事件を起こす能力などさほど無いかもしれない。
「あっ!でこぼこの道だ!ジャンプで進むんじょ!」
警察官と女性は懸命にジャンプした。何度も何度もジャンプした。男児もスクワットを続けた。彼は満面の笑みであった。
「着いたじょ!」
警察官はトランポリンからゆっくり降りた。安全第一である。
「犯人いましたか!?」
「まだだ!ここで待っててくだしゃい!」
警察官はおもむろにボールを一つ拾った。彼女の頭より一回り大きいくらいのピンク色のボールだった。するとそれを、腰すわり前から使える乳児用椅子に乗せた。ちょうど乳児のお尻がはまるところにボールがはまる。そうして出来上がった物をベビーサークルの前に置いた。
「行くじょ!目をつむってて」
警察官は、もしかしたら怒られるかもしれないなぁと思ったことを行動に移す時、必ずこの言葉を言う。女性は目を閉じるふりをしつつ薄目を開けた。すると、警察官はベビーサークルの上部に手をかけながら、いそいそと乳児用椅子にはめ込んだボールの上に立った。
「行くじょ〜……ジャーンプ!」
床に飛び降りた。そう、ボールと乳児用椅子はジャンプ台だったのだ。
「アハハハハハハ!」
男児の笑いのツボにはまった。
「もう一回〜……ジャーンプ!」
「アハハハハハハ!」
「ジャーンプ!」
「アハハハハハハ!」
「まだまだ〜…ジャーンプ!」
「アハハハハハハ!」
「もう一回〜……ジャーンプ!」
「アハハハハハハ!」
女性はトランポリンの端に腰掛けて、その様子をただただ静かに見守っていた。
 ――警察官は一体何度ジャンプ台から飛び降りただろうか。ようやくジャンプを終えた。すると再びピンク色のボールを手に持ち、今度はベビーサークルの中へ投げ込む。男児がボールを追いかけ、捕まえ、ボールを転がして遊び始めた。
「よし!追いかけよう!」
警察官がトランポリンに戻ってきて女性に伝えた。どうやら犯人はまだまだ逃げ続けているようだ。再び警察官と女性はトランポリンに乗り込んだ。
「高いところに逃げたじょ!高くジャンプだ!」
二人は再び懸命に犯人を追い、懸命に高く飛んだ。しかし、トランポリンによって強化された跳躍力を持ってしても、犯人の高さには届かないようだ。
「犯人待て待て〜!」
それにしても威勢の良い警察官である。
「捕まえるんじょ!」
警察官は再びトランポリンからゆっくり降りた。怪我をしないためには大事なことだ。そして今度はベビーサークルによじ登り、男児のいるサークルの中へと入っていった。
「犯人はそちらへ逃げたんですか!?」
女性の問いかけに対し、警察官はしたり顔で言う。
「捕まえたじょー!」
警察官の腕の中には、先ほどのピンク色のボールが抱えられていた。それまでボールで遊んでいた男児は顔をしかめて少し泣いたが、警察官にクマのぬいぐるみを与えられると泣き止んだ。警察官はそれからすぐに、ボールをベビーサークルの外に軽く投げた。警察官自身もサークルをよじ登って外に出る。そして、再度ボールを手にした。
「犯人、逮捕!」
ボールはまたしても乳児用椅子にはめ込まれた。
「ガシャーン!」
監獄の扉を閉める音がした。

 ボールを見やると、それは黙って静かにそこにいた。乳児用椅子にはめ込まれたその状態は、正しく先ほどのジャンプ台であった。あの時既に逮捕していたのでは?という疑問を口にしたら野暮だ。先ほどのボールと乳児用椅子はジャンプ台だったし、今のボールと乳児用椅子は犯人と監獄、先ほどと今で全くの別物なのだ。時が経過して変化した訳では無い、その時々で本当に別の存在として、在り、在ったのである。世に存在する物事に面は一つではないのだ。それは静物も生物も同じ。もっと言えば有形無形も問わず、いっそのこと森羅万象すべてがそうだと言ってもいいかもしれない。女児が二歳女児であり警察官でもあるように、女性が一人の女性であり母親でもあるように、トランポリンが遊び道具のトランポリンであり警察官の秘密道具でもあるように。女児はそのことを知ってか知らずか、様々なものに様々な側面を作り、与え、持たせている。
 そう考えている内に、ボールが乳児用椅子にはめ込まれてから少しばかりの時間が経過した。女児がそれに近づいていく。今度はその状態のままのボールの上にお尻を乗せた。椅子である。最初はジャンプ台、次は犯人と監獄、そのまた次は女児の椅子。幼児の想像力は多様な色を持って、本人のみならず周りの人や物にまで、それらの生活にたくさんの彩りを与えてくれるのだ。
 そのころ男児は、ベビーサークルの上部を歯固めにするかの如くしゃぶりついていた。女性はひとまず一息ついて、再びトランポリンの端に腰を掛けるところだった。

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