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僕の左眼は涙をながす。


幼い頃、僕には何かに感動するという感性が殆ど無かったように思う。
今まさに訪れているであろう感動的な場面、それは分かっていつつも心が反応しない。胸がくるしくならない、涙も流れない。

よく覚えているのは小学校2年生の頃だったか、4つ上の兄とその親友兄弟、そして僕の4人で当時大ヒット中だった劇場映画「宇宙戦艦ヤマト2 愛の戦士たち」を見に行った時の事だ。

かなり壮絶なラストシーンで、主人公が命をかけて地球を守るシーンがあった。ものすごく印象的で、記憶にはしっかり焼き付いている。沢田研二の歌うエンディングが流れ、エンドロールがながれる。

凄い映画だったなあと、横をみると、隣に座っていた兄の親友は頬を涙でびしょびしょに濡らしてスクリーンを見つめていた、あろう事かその奥に座っていた普段とことんクールで厳しい兄も同じ状態、僕の反対どなりに座っていた弟はもう顔を伏せている。


僕の記憶には映画と共にその映像が焼き付いた。。

僕の心は、この仲間に入れていなかった。

小学校3年生の時、飼っていた犬が事故で死んでしまった時も、悲しみにくれて静まり返っている空間の辛さは良く覚えているが、ショックの方が大きかったのかもしれない。心底から込み上げてくる涙はなかった。

また、家族で父の待つブラジルへ発つ時の空港でも、大勢の親戚や友達に見送られ泣いて寂しがってくれる人の沢山いる中、なんだか恥ずかしいような気持ちになり。素直な涙は流れなかった。

ただし、その時々のビジュアルだけは信じられないほど鮮明に記憶している。

5年生の時、凄く好きなメンバーが揃ったクラスだった。最後の終業式の日に寂しい気持ちをむりやり拡張し、悲しくて泣いてみるという事を無理やりやってみた。

それは形だけ、、こんな風に素直に出来たら良いのにと思った。

この様な事が何度かあり、いつしか気持ちが込み上げて泣く事に対する憧れを抱いて行ったような気がする。
小学校に上がる時、男の子が泣く事は恥ずかしい事、簡単に泣いてはいけない。と、誰かに言われたのか、自然とそう思ったのか、、
そんな事も自分の感情をだすことへの壁を作っていたのかもしれない。
ぼくはその壁を壊したかったのだろう。だから五年生の最後にそんな行動に出たのだと思う。

初めて感情が抑えきれず声に詰まったのは、兄の結婚式の時だったと思う。どちらかと言うと仲も良くなかったし、なにせクールで厳しい男だ。結婚式では撮影を頼まれ、必死でこなそうと仕事に従事していたのだが、いざ式が始まり奴の顔を見た瞬間、何かが込み上げてきたのを感じた。胸が熱くなり声が出ない。ファインダーが滲む。
あれは何だったのか、血のなせる技か、、
それ以来、込み上げてくる感情を得たようで、素直に涙を流す事が出来る様になった。今ではすっかり涙脆くなり、なにかと胸を熱くしているが。


プロのフォトグラファーになり、海外での撮影を重ねる中で、ある時不思議な現象がおきた。

ニューカレドニアのイルデパンという美しい島での事だ。この島には美しいエメラルドのような海と、悲しい歴史が混在している。

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↑イルデパンのピッシンナチュレル。


パリ・コミューンの流刑者収容所跡。

19世紀後半にフランスの流刑地として多くの犯罪者が島流しの刑としてこの島に送られてきた。
犯罪者は主にパリ・コミューンと呼ばれるパリの革命的自治政権の政治犯だ。その跡地が廃墟のように島の西側に点在している。

廃墟の前に立つと、コーディネーターの足がピタッと止まった。

「南雲さん、ここ、どうします。撮りますか?、やめましょうか」
とやや逃げ腰、

背丈より少し低いぐらいの茂みの中に石造りの監獄が廃墟と化して佇んでいる。敷地内に入る事を拒絶する空気を強く発していて確かに入りづらい、だがその場所に漂うある種の美しさも感じていたし、拒絶の奥に潜む誘いの糸が手に触れた気がした。

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「行くよ」
と行って僕はカメラと一緒に茂みの中にザクザクと入って行った。

カメラをモノクロの設定に変え、糸を手繰り寄せる。心をざわつかせる何かがある。

「ここは撮る必要がある。」

草をかき分けて進む、空気が重い。草と空しか見えない空間を通り抜け廃墟の目の前にたどり着くとスッと視界がひらけた。

強い存在を感じる。

廃墟の前で横倒れになった一本の枯れ木に出会った。
いや、それは完全には倒れておらず空に手を伸ばして天を仰ぐように、斜めに立ち枯れていた。

それは有機的な物が無念の中で命を失ったときの記号のように見えた。

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僕が来るべき場所はここだった。
視界はいつの間にかファインダーの中にあり、その記号に向けてシャッターを切っていた。いつの時代の、どこにいるのかわからないような空間の中で、僕はこの時空を切り取った。

刹那、僕の左眼から涙が流れた。

まるで左眼だけが僕の意識をはなれ、なにかと繋がったかのように、とめどなく。
右眼はファインダーの中のその風景を、獲物を前にした鷹のように捉えて離さない。

何がおきているのかわからなかった。自分が分裂してしまったようだった。

この流刑地に送られてきた人のほとんどは学識者や芸術家だったと言う。ここで僕は彼らの想いのようなものと繋がり、そして背負ってしまったのだろうか、

この左眼の想いとは僕のものなのか、それとも目の前にある事象のもつ想いなのか、この涙はファインダーの中を見る事ができない左眼の哀しみなのか、事象を素直にうけとめた刻がながす涙なのか、

とにかく僕の出来る事は、はっきりと見える右眼で目の前の風景を捉え、写し撮って行く事だった。

この涙が哀しみを洗い流してくれるから、心をなんとか保つ事が出来ているようにも感じた。

以前、
「せつない歌を歌っていると感情が込み上げて声がつまり歌えなくなる事がある」と友達に言った事がある。
その友達はこう教えてくれた。

「その感情に乱されず、それを歌に込めて表現できる人が本当に人を感動させる歌を歌える人なんだよ」と。

目から鱗がおちた。

この現象が起きた瞬間、僕は本当の表現者として一歩を踏み出したのかもしれない。フォトグラファーは、その感動を前に涙でファインダーを曇らせてはいけないのだ。

本当に心からのシャッターを切っている時、僕の左眼は涙を流している。右眼はただ光を捉えることに集中し、作品を創り続ける。
左眼はそれに哀を捧ぐのだ。

表現者はそう言う二面性をもちながら生きていく生き物なのかもしれない。

心の動かなかった幼少期から、普通に心が反応するようになり、
今では左眼がアンテナのように撮影するべき物に感応する。随分おかしな性質を背負ってしまったものだ、、

でも大丈夫。
カメラを置いたとき、僕の両眼からは容赦なく涙が溢れはじめる。


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