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最終回-恋図Lens-

 小さい頃から気が小さく、剣道の試合やバイオリンの発表会が嫌いだった。極度に緊張してしまい、全く力が出せないのだ。どちらも習わせてもらった事はとても感謝しているし、身につけた事も沢山あると思う。故に本番での弱さが辛かった。

人に気持ちを伝えることも苦手で、
明るく楽しくやっているように見えて、本当に伝えたい事は胸の中で膨れ上がり、喉から先には出て来なかった。

頑張って想いを伝えてくれた人に対しても、膨らんだ気持ちは胸にひっかかり、しっかりと正面から答えることも出来なかった。
話をするのは得意なほうだと思っていたし口も回るほうだったが、一番大切な時には役に立たなかった。

日芸に入り、写真という表現手段を勉強した。これは表面的には簡単とさえ思えたが、ゆえに物足りなさを感じるようになり、技術を覚えれば覚えるほど完成の見える模型をつくるように感じてしまった。

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それでも写真は面白かったが、自分の感情の真ん中から出てくるような、僕の写真と言えるものはやはり技術から生まれるものでは無く、、悩める日々を送る。

 

写真学科一年生の最後の課題提出のなかに、

「今一番興味のあるものを撮る」

というものがあった。

僕は同じサークルの他学科の友達を撮ることにした。

そのサークルは広告研究会で、自分で決めたクライアントの擬似広告を作るといった活動をしていたのだが、初めての作品制作でその友人を使った一眼レフの広告作品を作り、その評判が良かった事に気を良くして課題でも撮らせて貰うことにしたのだ。

その時は特に一番興味があるとか、そういう事では無かったと思う。ただなにか、いつもと違う感覚は持っていたかもしれない。

テスト撮影やちょっとした時間を使ってのその課題の作品撮りを続けていくうちに、なにかしっくりくるというか、写真を撮る行為を凄く自然に感じるようになり写真の仕上がりもどんどん良くなって行った。

「なんだろうこれは、どんな写真をとりたいのか、どんな表情がほしいのか手にとるように分かる」

楽しくて、フィルムのある限り撮りまくった。

色々な所にその友人を連れ出し、昼夜問わずその二人の時間をカメラに閉じ込めた。撮影とか、カメラとか、そんな事は二の次になるような時間だった気がする。

暗闇で自ら現像するそのフィルムにはドラマチックな映画のワンシーンのような瞬間がたくさん浮かび上がってくる。失敗も成功もない、ひたすらにリアルな世界。それは今まで撮ってきた写真とは根本的に違う何かが詰まっていた。

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ある時、サークルのメンバーに

「この写真さあ、出てるよねぇ、なぐの気持ち」

と言われ、途端に猛烈に恥ずかしくなった。

どうやら気がつけば僕はその人に特別な感情を抱き、それが凄く写真に出ているというのだ。。周りはみんなわかっていると、、

ゼミの教授からも、「これは非常に私的な表現をしている写真だ。」と言われた。

やられた、自分の気持ちを自分の撮った写真に気付かされた、、、不意打ちというか、、これが写真の表現力なのか。

写真だけのつもりだった。美しいとか、綺麗だとか、それが出来るように写真が上達しただけだと思っていたのに。レンズに気持ちを吸い取られ、感情は全て写真に収まっていたのだ、お陰で強く恋に落ちている自分に気がつく事すらできなかったのだ。

冷静になって写真を見てみると、好きだと伝えたい気持ちが全部そこには写っていた。 

それは、被写体の彼女にも分かっているのは明白だった。僕は自ら撮影した写真に衝撃的なカウンターパンチを喰らい、もうどうして良いのか分からなくなってしまった、、

まあ、バレてしまったものはしょうがない、でも、直接言った訳でもない。だから相手にも応える義務はない(笑)なら、続けられる。つまり相手が僕にどんな感情を抱いていようが、パートナーがいようがいまいが関係ない。写真家としての表現は自由なのだ。

僕は素直にレンズの中に気持ちを注ぎ込んで行った。それは恋文ならぬ「恋図」だった。

大学を卒業する間際まで、直接言葉で伝えることは出来ず、(やはりそれは苦手だったし)それでもいいと恋図を作り続けた。それは辛く切ない、だが僕の道を記す作品となっていった。

仲間からは

「プロでも撮れない俺だけの写真!いいねえそういうの」

とか、

「おまえなんで他の子の写真は下手なの」

とよく茶化されたが、まあ事実として受け入れるしかなかったと思う。大好きな人が手に入る訳ではないが、写真としてはそれでいいわけだし。 


写真は人の心を動かすこともあるし、空振りする事もある。
でもこれは自分の表現としての事だ。僕はこの時間に恋をしている、そしてその時、僕はレンズを握りしめている。

大好きなものに対して心の真ん中でシャッターを切る、言葉の代わりに、文字の代わりに、シャッターをきる。それが恋図である。

あれから30年が経った今でも、その撮り方が僕の基本姿勢となっている。人でも、物でも、風景でも、そういう被写体に出会ったときには、レンズに感情を吸い取られるあの時の感覚が蘇る。

そしてそうやって撮って、作ってきた恋図は自分の人生の足跡になっていく。自分の気持ちが強く動いた瞬間を恋図が教えてくれる。


少しは出来るようになったが、まだ言葉はなかなか胸につかえて出て来ない。こと人への感情に関しては、これではダメみたいだ、、ここだけは不器用なのだ。 ちゃんと普通に人の気持ちをゲットしたい人は気の利いた言葉を発する訓練をしたほうがいいと思う。

写真家はやっぱり、どんなに口が上手くて舌がよく回っても、本当に大事な気持ちは言葉にできない。シャッターを切ってカメラに込める事しかできない。
伝わるかどうか分からないが、それしか出来ないのだ。

それでもぼくは、撮り続けたいと心から願っている。

それが気の小さい僕が手に入れた、最高の表現手段なのだから。


Lens-恋図-  完

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