見出し画像

「雨宿り」



 自分が普通とは違うのだと気付いたのは5歳の頃だった。教室の隅で体育座りをしている女の子があまりにも寂しそうだったので、「幼稚園で知らない子を見つけても喋りかけてはいけない」という母親の言いつけを破り話しかけたら、「1人で何してるの?」と先生に声を掛けられた。
「 1人じゃないよ、この女の子とお喋りしているんだよ」と先生に教えてあげると、先生は一瞬だけ怪訝な顔を浮かべ、その後は優しい笑顔で僕を抱きかかえた。
 お昼寝の時間にもその子は1人だけ部屋の隅に座っていたから、僕の隣で寝る友達にあの子は誰かとひそひそ話で聞いてみたけど、友達は誰も居ないよと不思議そうに言った。

 この世界には僕にだけにしか見えない存在があって、僕以外の人はそのことを認識さえしていない。

 小学生になると学校だけでなく、通学路や友達と遊んでいる公園などでもその存在を目にすることがあったが、僕はあの時のように話しかけることはなかった。
 幼稚園であの寂しそうな女の子に話しかけた夜、母親にそれを話すと激しい剣幕で叱責された。僕の両肩を掴む母の指は皮膚に食い込み、まるで母の腕だけが知らない大人のようで怖かった。母は僕にもう二度と話しかけてはいけないと言った。それは僕を不幸にする存在だと言い、この世界には存在する必要のないものだと言った。それ以来、僕はずっと見えていない振りをして過ごすようになった。

 中学へ進学すると部活動が始まり生活は一気に慌ただしくなった。僕は仲良くなったクラスメイトに誘われサッカー部に入り、初めて経験する先輩との上下関係に戸惑い、怒号の飛び交う厳しい練習に圧倒されながら毎日ボールを追いかけた。練習が終わっても、一年の僕らにはグラウンドの整備とボールの手入れが残っており、練習に使ったボールの個数が合わなければ陽の落ちたグラウンドをいつまでも探し続けた。その頃になると、僕にしか見えない存在は今までのようにはっきりと目に映ることはなく、人の形をした白い靄のように見えるだけだった。

 ある日の練習終わり、先輩達の帰った部室に残り皆で喋っていると、チームメイトの一人が学校の屋上にまつわるある噂を話し出した。

「知ってるか?先輩から聞いたんだけどこの辺りは昔処刑場だったらしくて、うちの学校の屋上には落武者の霊が出るらしいぜ。こうやって遅くまで帰れない一年の頃に歴代の先輩達も見てるらしい」

 こういう話になると必ず確かめようという流れになるものだが、僕らも例に漏れず、残った数人のチームメイトと屋上を目指し進むこととなった。
 監督や数人の先生が残っている職員室から、一番離れた階段を一列になって上がっていく。サッカーソックスだけの足裏には廊下のひんやりとした冷たさが伝わり、それはどこか死人に触れているようだと思った。階段を上がる途中に目の端で捉える白い靄がいつもより蠢いている。閉じていた意識が記憶のように少しづつ蘇っていく。
 階段を上がるごとに濃くなっていく闇の中を進んだ。誰もが引き返した方がいいと感じながらも、チームメイトの前ではそれを口に出せず押し黙っている。
 四階までの階段を上がり切ると、その先に五段ほどの階段が続き屋上への扉が現れた。鉄製の扉は昼間に見る姿と全く違い、そこにぽっかり空いた仄暗い穴のように見えた。

 扉の前から動けずにいる僕らだったが、「行くか…」と誰かが絞り出した声を合図に、硬直し一塊になった体を無理やり一歩前に動かした。鼓動が激しくなり、チームメイトに触れている手のひらが熱くなる。先頭にいるチームメイトが扉に向かって伸ばした手が、まるで自分のもののように緊張する。震える手がドアノブに触れようとした瞬間、「ガシャンッ!」と向こうからドアノブが回り、ゆっくりと扉が開いた。
 僕らは反射的に踵を返すと、一斉に情けない悲鳴をあげながら脱兎の如く階段を駆け下りた。普段ならその高さに躊躇するような階段の十段飛ばしを、無我夢中で皆が繰り出していく。迷いなく階段から飛び出すチームメイトは次々と宙を舞い、ツルツルと滑るサッカーソックスでの着地に次々と体勢を崩し転倒していく。それは飛べない馬鹿な鳥の隊列のようで、恐怖の支配する空間で繰り広げられる、あまりにも滑稽な自分達の姿に笑いが込み上げてくる。一人が吹き出して笑ってしまうともう我慢できずに、悲鳴と笑い声の混じり合った喚き声をあげながら、僕らは階段を転がり落ちていった。

 翌日は教室でも部室でもその話でもちきりだったが、僕らの話す内容は恐怖体験がメインではなく、その後に嘘みたいな高さから階段を飛び降り、全員が着地で転倒して、グチャグチャになりながら階段を転げ落ちていったという笑い話になっていた。
 あの時、扉から出てきた制服姿の女の子を目の端で捉えていたのはやはり僕だけだった。そして彼女の姿は、何故か幼稚園の頃に見たあの子と重なって見えた。

 僕はその日以来ずっと彼女のことが気になっていた。彼女はこの学校の制服を着ていて、もしかしたら僕にしか見えない存在などではなく、誰も気付かなかっただけで実際はこの学校に通う生徒かもしれない。僕は登校する朝から下校する夜遅くまでなるべく注意して他の生徒を見るようにしたが、同じ学年だけでも相当な人数の生徒がいて、その他にも二年や新校舎にいる三年まで全ての生徒を把握することは難しいように思えた。
 僕は意を決してもう一度屋上に向かうことを決めた。彼女が何者かを確かめる為に、彼女を目にしてからずっと引っ掛かっているものが何かを知る為に。

 窓からは夕陽が差し込み、階段を上がるごとにグラウンドから聞こえる声が遠ざかっていく。僕は少しでも恐怖を和らげる為に、放課後の部活が始まるまでの間に屋上へ向かっていた。
 屋上に繋がる扉のドアノブに手を掛けると、それは拍子抜けするほど簡単にくるりと回った。扉を開けて屋上に出ると柔らかい風が僕を撫でていき、茜色に染まる空が少し近くなったように感じた。
 目を凝らして辺りを見回すと、フェンス越しに景色を眺める彼女の姿が当たり前のようにそこにあった。

「見えてるんだ」

  僕が近づくと、彼女はこちらを向かずにそう言った。

「あっ..はい」

「私に何か用?」

「いや…この前サッカー部の練習終わりに皆んなで屋上に行こうとしたら、君の姿が見えたから」

「あ〜あの時の。ごめんね、驚かすつもりはなかったんだよ。ただ物音がするから何だろうと思って見に行ったら、あなた達に出くわしたのよ。私も結構びっくりしたんだよ」

 彼女はこちらを向いて少し笑ったけれど、その笑顔もとても寂しそうだった。

「平気なの?」

「何が?」

「私が見えていることや、私とこうして喋ってることが。あなたにとってあまり好ましい状況とは言えないでしょ」

「どうだろう、最近は見ないようにしていたけど、僕には昔からずっと見えていたものだから。親に叱られても、友達に不思議がられても、たとえ何者であろうとも今ここに君がいるってことが、やっぱり僕にとっては真実なんだ。怖いというなら本当は、今まで見えていない振りをしていることの方が怖かったかも。ほっぽり出してはいけない何かを放棄しているようで、ずっといつか後悔するような気がしていたんだ」

 あまり深く考えていなかったはずの感情が自然と口から溢れていた。

「君はどうしていつもここにいるの?」

「こうして屋上から見ていると、ちゃんとここが区切られた限定的な空間だって認識できるでしょ。このフェンスやコンクリートに囲われ先には本当の社会や生活っていうものがあって、ここから沢山の光が灯って見える。あとは落ち武者のお化けが出るって、皆んなここには近づかないから静かでいいしね」

 他に何を聞くべきか考えていると、屋上への扉が開き用務員のおじさんが顔を出した。

「お〜い、もうここ閉めちゃうから中に入ってくれよ〜」

 僕は用務員のおじさんに軽い会釈で答えた。

「もう行かなくちゃ、また明日の放課後に来てもいいかな?」

「うん、少しだけど話せて楽しかった」

 そう言って彼女は、乾いた笑みを僕に向けた。

 着替えてグラウンドに向かうと、もう数人の先輩達がボールを使って遊んでいた。僕は先輩に見つかり遅れた理由を聞かれたが上手く答えられずに、翌日から一年全員の連帯責任として、練習前に一週間の罰走を命じられた。
 罰走の元凶である僕がサボる訳にもいかず、必然と一週間は屋上へ行くこが出来なかった。昼休みにも時間はあったが、流石に屋上にも何人かの生徒はいることがあり、他の誰かがいる状況で彼女が姿を見せるとは思えなかった。
 屋上へ行くことを半ば諦めていたある日、五限目の授業中に雨音が教室の窓を叩き始めた。次第に強くなる雨音を聞いていると、雨に濡れた彼女の姿が頭に浮かんで離れなくなった。
  授業が終わると、他のクラスのチームメイトが練習の中止を伝えにやって来た。

 僕は帰りの挨拶が終わるなり教室を飛び出して急いで屋上に向かった。勢いよく扉を開け、雨の糸の先に目を凝らしたが彼女の姿は見えなかった。頭上に設置された雨除けのひさしの下から仕方なく雨の中に一歩踏み出そうとしたとき、隣から彼女に声を掛けられた。

「久しぶり」

「びっくりした..、全然気付かなかった」

「こんな雨の中で一人屋上に突っ立ってる方がびっくりするでしょ、私みたいな存在はそういうの気にしないと思った?」

「うん、まぁ…」

「たとえもう何も感じなくなったとしても、記憶にはちゃんと残ってるんだよ。すごく冷たかったことも、逆にすごく温かったことだってね」

「そっか、あっごめん。明日とか言っといて中々ここに来れなかった」

「そんなの全然いいわよ、自分が誰からも忘れられない存在だなんて思っていないから。ただ今日来てくれたみたいに、ふとした時にちょっとでも誰かに思い出してもらえたら嬉しい」

「別に忘れてた訳じゃないよ、ちょっと部活で面倒なことになって・・」

「だったらもう気にしなくてもいいよ。でもさぁ、あなたはどうして私に会いに来てくれるの」

「それは僕もずっと考えてたよ。 幼稚園の頃に小さな女の子に話しかけたんだ、とても寂しそうな顔をしていたから。でもそれは僕だけにしか見えていなくて、母親に言ったらそれは僕を不幸にするものだって酷く叱られた。そうして母親の言いつけを守っていたら、今まで見えていたものが不思議と段々見えなくなっていくんだ。ただ人の形をした靄のようになって、きっとそのうち僕の視界からは完全に消えていく。でもそんな時にふと思ったんだよ、僕以外の人は見えていないんじゃなくて、見ないようにしてるんじゃないのかって。必要が無いと、ただ切り捨てているだけなような気がしたんだ」

「でもそれは別に間違いではない、とても賢い生き方よ」

「うん、でも正しい生き方ではないよ。だって君は今ここにいるんだから。僕が話しかけたあの子と同じようにとても寂しそうな顔をして、自分が存在していることがまるで申し訳ないことのように」

 彼女は何も答えずにそっと目を閉じた。

「まぁだからって、ここまで来て僕に何が出来るわけでも無いんだけど…あの子には言えなかったことを…君にはちゃんと伝えたかったのかもしれない。
 この世界に君は存在しているってことを、たとえ誰も見ようとしなくても、誰が君から目を逸らそうとも、僕の目には君が映っていることを。
 申し訳ないなんて思う必要はないんだ、どんなに君を否定する奴が現れても、この世界はちゃんと君を肯定しているから。僕はずっと君を証明し続けるから」

  彼女は目を閉じたままそっと僕の手に触れた。

「雨宿りみたいだ…。こうしてあなたと話していると、いつかこの雨は上がって分厚い雲の隙間から光りが差し込んでくるように思える。
 雨に濡れることなく私は外に飛び出して行ける。きらきらと光る水溜りを蹴って何処までも気にせずに駆けてゆける」

 そう言って笑う彼女の表情は穏やかで、僕に触れるその手は冷たく静かだった。

「だから、もう少しだけあなたと早く出会いたかった」

 屋上に向かって階段を上がる足音が聞こえ、ゆっくりと扉が開いて用務員のおじさんが顔を出した。もう閉めるよと声を掛けられ、隣を見るとそこに彼女の姿は無かった。
 空を見上げたおじさんが、もう雨は上がったかと呟いたのを背中で聞いた。
 階段を下りながら窓の外を見ると雲から一筋の白い光が差していた。
 僕はその光景を見ながら、もうきっと彼女に会うことはないのだろうと思った。
 下駄箱でスニーカーに履き替え外へ出ると、僕はきらきらと光る水溜りを思いきり蹴りあげた。


 




 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?