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「罰当たりの末路」


 暇が出来るとたまに神社仏閣巡りへ出掛けることがある。巡りと言っても三か所程の散歩みたいなもので、荘厳な美しさに包まれ、先人に触れたような気になって心の浄化を図っている。
 先日も天気のいい休日を狙って、前々から行ってみたかった寺院に向かった。電車を乗り継ぎそこから15分ほどバスに乗るのだが、その途中で車窓から長い石段が見えた。一瞬だけだったが、長い石段の前を通った時にだけ喧騒がかき消されたような静寂さがあり、その異質な空間に後ろ髪を引かれる思いがあった。

 目的地の寺院に着くと、事前にスマホの動画を観てイメージしていたよりずっと素晴らしく、拝観料百円なのが申し訳ないと思う程に整備された境内は、庭園のように美しく季節の花々が咲き誇っていた。本堂を前にした際に視界へ入る空の青さの割合も完璧で、緻密に計算された絵画を連想させた。境内には茶屋があり抹茶が頂けるのだが、品格と温もりのある景色を眺めながら、気づけば目を瞑って茶を啜り、ほっとわざとらしく息を吐くほど雰囲気に酔っていた。茶菓子の上品な甘味と抹茶のバランスも絶妙だという表情で頷いたりしていたが、今考えればクリスマスケーキの上のサンタくらい甘いだけだった。
 たっぷりと休憩をして大満足で寺院を後にした僕は迷っていた。このまま予定をしていた近くの神社に向かうか、それともバスの車窓から見たあの石段の先に行くのか。もう十四時を過ぎていたのでここから二か所回るには時間がないように思えたし、車窓から一瞬見えただけの石段まで徒歩でどれくらいかかるのか見当が付かなかった。僕は迷った末に、どうしても気になるあの石段に向かった。

 バスで来た道を徒歩で引き返していると、思っていたよりもすぐに石段の下に到着した。実際には車窓から見えたよりずっと長い石段が続いており、調べるとその地域で最古の寺ということだった。どうりでこの石段だけが現世から切り取られたように、ひっそりと異質なまま存在していたのだと思った。石段を上がって行くと中腹に料金所があり、そこで拝観料の三百円を支払う 仕組みになっている。僕が千円札を財布から出すと、受付のおじさんに「小銭ないですか?」と聞かれ、無いんですと答えると、物凄く嫌な顔をして「今百円玉が少ないんだよね」と言われた。ちょっと待って下さいと一応ポケットや鞄を探っていたら、「もうもう、いいよいいよ千円で」とぶっきらぼうに言われ、ため息混じりでお釣りを返された。
 そこからまた石段を上り古い山門をくぐると、最古の寺というだけあって神聖で澄んだ空気が満ちていた。さらに続く石段には苔がこびり付くようになり、先人達が上がり続けて来たのか石段の中央部分は、削れたように少しへこんでいる。そのへこみに自分の足を合わせるように歩く。本堂に着くと立派な観音像が鎮座されており、煌びやかというよりは、黄金の鈍く重厚な光を観音像は放っていた。山門をくぐってから観音像までの完璧なアプローチ。やはり此処に来た判断は間違ってはいなかった・・はずだったのだが、さっきのおっさんの態度のせいで、僕は感動するような精神状態ではなくずっとムカついていた。
 そもそも最初の寺はあんだけ整備されて拝観料百円やったのに、ここ三百円ですか?差額の二百円は全部あのじじいの懐に入ってんちゃうやろな。本堂でも所狭しと、お札やら手拭いやら色々売っとるのあの銭ゲバが!絶対買わんし二度とこんなとこ来んからな!
怒りを抑えて切り替えようと思っていたが爆発してしまい、こんな気持ちではどうしようもないと観音様にお辞儀をして石段を下りた。石段を下りながらも僕はブツブツとずっと文句を言っていた。

「あいつのせいでこの寺の魅力が台無しや。自分が観音様やったら恥ずかしいわ。せっかく寺に足を運んで、自分を見に来てくれてるお客さんにどんな態度と取ってんねんてなるわ。観音様を一番敬わなあかん奴が一番足引っ張ってもうてんねん。ここの観音様がかわいそうや」

 ここまで口に出したところで石段の苔に足を取られ、お尻から倒れて石段を滑り落ちた。それも豪快に七段ほど滑り落ちて死ぬかと思った。
「えっ俺なん⁉︎罰当たるの?」とスローモーションになる風景の中で驚いていた。たまたま踊り場が設けられていたので助かったが、なければきっと料金所のじじいの所まで転がり落ちていただろう。納得のいかない気持ちはあったが、これ以上の罰が当たらぬよう唇を噛み締めて石段を下った。料金所が近づいてくると、先ほどのじじいが午後の柔らかな日差しを受け、気持ちよさそうに居眠りする姿が見えた。仕事せえよという言葉を飲み込み、僕は無心でじじいの前を通り過ぎた。

 帰りのバス停を探しながら駅の方向に向かってとぼとぼと歩き始めた僕は、五分ほど経ってあることに気づく。あれだけ派手に転び豪快に石段を滑り落ちたにも関わらず、傷や怪我はおろか体のどこも痛くないのである。そうか、やはり観音様は僕を見捨てていなかったのだと全てを悟った。僕は観音様によって罰を与えられ転げ落ちた訳ではなく、もう転けると決められていた事象から観音様によって救われたのである。本来なら尾骶骨の骨折に全身の打撲と裂傷、着ていた服や靴も無惨に破れていた筈なのだが、自身の置かれた状況を憂う僕を、観音様が無傷で生還させてくれたのだ。
いや、だったらそもそも転けないようにしてくれよと言うのは介入のし過ぎであり、自然の理から外れ歪みを生み出してしまう。
 そして、やはり罰はあのじじいに与えられていた。罰に関しては観音様も手加減をしない、理から外れてこその罰である。じじいは午後の柔らかな日差しを受け居眠りしていたのではなく、観音様によって、その体から魂を引き抜かれた状態だったに違いない。きっと悔い改めるまで、あのまま二度とじじいが目覚めることはないだろう。

 歩いているとバス停まで着き、丁度バスが滑るように入って来た。僕はそのままバスを追い越し大きな歩幅で駅までの道を歩いた。

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