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毎週ショートショートお題 「一方通行風呂」



 「お〜い、そっちの湯加減はどうだ?石鹸を忘れたから投げてもらおうかなんて思ったけど、ちゃんとした温泉には色々と備え付けであるんだな」

 英夫の声は湯気と共にゆらゆらと立ち昇り、文子の返事を待たずに消えていった。子供達はもうそれぞれの暮らしを始め、夫婦の生活にはゆとりが出来た。働き詰めだった英夫は昇進し金も稼いだが、今になって文子の望んでいた幸せは何一つ残せていないと気づいた。
 こうして無理やり連れ出した温泉旅行でも夫婦らしい会話などなく、平日の昼間で貸切のようになった温泉に浸かりながら、英夫は文子に喋り続けた。

「なぁ、文子…俺は今までずっと家族のためだと言い聞かせて働いてきた。でも、それは違ったんだな。俺はただ自分を取り巻く世界を繋ぎ止めることに必死で、くだらないプライドを依代にして、本当は家庭と切り離していた。家族が、文子が望まない幸せに価値などないのに、結局は自分の為に働いていたんだな」

 文子からの返事はなく、英夫の言葉は風呂の空間を一方通行に流れていった。

「すまない…こんな言葉に何の意味があるかは分からないけど、それでもちゃんと伝えたくて。そしてもう一度やり直すことが出来るな・・」

 英夫の言葉が終わる前に、脱衣所へと出ていく扉の音が聞こえた。

 着替えの終わった英夫が暖簾をくぐり廊下に出ると、中庭の景色を見つめる文子がいた。

「文子…」

「あなたのさっきの言葉、ちゃんと聞いていましたよ。でも過ぎてしまった時間を取り戻すことは出来ない。人生に後戻りはないから、私たちは前にしか進めない。だからここから始めましょう。今まで経験した後悔も失望も全部背負ったままで、お互いに支え合いながらだったら生きていけるわ」

 文子は英夫の言葉を待たずに、ロビーに続く真っ直ぐな廊下を歩き出した。



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