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「#16 夏の海を眺めるだけの歳になった」



 遊歩道からビーチへと下りる石段の途中に腰掛けて海を眺めている。とても良く晴れた穏やかな天気の下で、サーファー達は昼寝でもするように皆プカプカと波間に漂っている。
 何か明確な目的があった訳ではない。ただ海が見たいと思った。喉を締めつけられるような閉塞的な日常の中で、どこまでも続く海と、果てなく広がる空を眺めていれば、ほんの少しだけ心は軽くなるような気がした。

 照りつける日差しの熱を皮膚がゆっくりと吸収して、体の奥にある冷え切った部分を温めている。こんなにもちゃんと日の光を浴びたのはいつぶりだろうか。水着姿の若い男女がビーチボールの行方を追って砂浜を駆け回っている。大きな浮き輪に二人で体をねじ込むカップルも、数十羽のトビが頭上で旋回している中でバーベキューを敢行する強者達も、女子グループのシートの前に陣取り真っ白な競泳用のビキニパンツ姿で仁王立ちする変態中年も、海水浴を楽しむ全ての人がここからはよく見える。僕の目に映るそれらの景色は、僕がいるここよりも眩しく見えた。

 きっともうここにスポットライトは当たっていない。それでも不思議と焦燥や寂寥を覚えることはなかった。ただ過ぎ去った過去を懐かしく思っただけだ。今以上の何かを僕が人生で得ていたとしても、たとえ多くのものを失っていたとしても、最後はここに辿り着くような気がした。ここはとても居心地がいい。
 僕が若い頃には気付かなかったし、「あのずっと海見てるだけのおっさん何をしにわざわざここまで来てんねん」とバッキバキの上半身を露わに思っていたけれど、今の方がずっと海と繋がっているし深く感じている。
 夏の海はメイクアップした特別な姿でしかなくて、海水浴やバーベキューの方が海との付き合い方としては特殊なのだ。

 今度は冬の海を見に来よう。それが取り繕うことのない表情であり、本来あるべき海の姿をここからずっと眺めていたい。憂愁を帯び、優しくて、畏れるべき存在である海を眺めているだけで、自身の腹に巣食うどす黒い感情は浄化されていく。
 もうこの先、海で泳ぐことも砂浜を水着姿で駆け回ることもないだろう。それは決して昔より体型が崩れたことや体力が落ちたことが理由ではない。ただもう通り過ぎた事柄であり、スポットライトに照らされた幸福は必要じゃなくなった。この目に映る世界をちゃんと美しいと思えるから。
 ただ、「体型が崩れた〜・・」の部分を入力している時に正直ためらいがあったので、結局は僕も歳を取ったということだけなのかもしれない。

 砂浜から笑い声の混じった悲鳴が聞こえる。僕よりも年齢が上で体型の崩れた白ビキニパンツの男が、知らん顔しながら女子グループとの距離をジリジリと詰め、スポットライトの下でさらに誰よりも大きな注目を集めていた。

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