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「泡のような夜の思い出」


「なんか炭酸が飲みたいなぁ…」

 これは僕が子供の頃に時々聞いた、母親の口癖のような言葉だ。
 家にスナック菓子やチョコレートなどは基本的に置いておらず、小学校の二年になるまでは駄菓子屋にも行ったことがなかった。
 お菓子や甘い物を食べたい時は、いつだって母親の手作りが当たり前だった。
 駄菓子屋で買ったお菓子をビニール袋に入れて公園を走り回る光景に憧れはあったものの、子供のためを想い、愛情を込めて作られる母親のお菓子やケーキはとても美味しくて不満などなかった。

 そんなちょっと真面目な母親が、晩ご飯の後やお風呂上がりにふと口にする言葉が、「なんか炭酸が飲みたいなぁ…」という台詞だった。
  僕は母親のこの言葉を聞くといつも嬉しくて仕方がなかった。この後には必ず「今から炭酸買いに行こうか?」と笑う母親の誘いが待っていたから。
 まだ小さな僕にとって、普段の習慣にない家で炭酸を飲むという行為は、まるで悪いことをしているようなドキドキ感があったし、夜になってから母親と二人で家を抜け出すなんて、冒険へ出るみたいにワクワクした気持ちだった。

 当時住んでいた団地の裏手にある、河川敷に繋がる土手の階段を母親と手を繋いで上がっていく。
 土手の頂上は遊歩道になっており、真っ直ぐ伸びた暗い道の先に自動販売機の光が見える。僕は母親の手を強く握りながら、夜にしか味わえない透き通った空気を吸い込んで歩いた。
 目の前にした自動販売機はキラキラと眩しくて、決まって母親が選ぶ三ツ矢サイダーのボタンを押すのが大好きだった。
 僕は家までの二〜三分が我慢できず、いつも帰り道に炭酸を飲みながら帰った。
 夏の暑い夜に感じた、あの生ぬるい喉を一気に通り抜ける爽快さを、冬の寒さの中で感じた、あの乾いた喉を刺すような刺激を、今でも僕は鮮明に記憶している。

 気付けば大人になった今でも、無性に炭酸が飲みたくなる夜が時々やって来る。
「なんか炭酸が飲みたいなぁ…」と部屋で独りごちりながら、もう会えることのない母親を少しだけ思い出している。



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