ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑬

あらすじ 
 主人公・濃姫(胡蝶)がメンター、織田信長がメンティとなり、壁打ちしながら戦略を組み立てる戦国ライトノベル。歴史を楽しみながらビジネス戦略の基礎知識に触れる事ができます。
 第4章は美濃攻略です。木曽川以外に両者を分ける障害物が無いのに、信長は美濃攻略に7年もかけています。それは何故なのか?周辺各国の情勢や同盟関係など、様々な要因が複雑に関係しているようです。


第4章 美濃攻略
    ~組織論をふまえて~

第1節   ワンマン経営の死角・斎藤義龍の死去

 長良川の戦い以後、美濃は斎藤義龍が仕切っていた。1558年頃からは国政は斎藤六人衆という六人の宿老に一部権限移譲するようになるが、まだ十分ではなかった。外交に関しては義龍が握っていた。今に残る書状からは、複雑な荘園体制から、郷や郡を単位とした知行に切り替えようとしいていた事が伺える。これは奇しくも、尾張で信長が実施していたものと極めて類似していると言う。どちらかが間諜により調査していたのか、それとも・・・。

 この物語の斎藤義龍の周りには戦略や内政に秀でた者が少なかった。そこで、沢彦や胡蝶が主な相談相手になっていた。しかし、長良川の戦いで、表向き美濃と尾張は対決姿勢を見せているので、胡蝶は安易に美濃に行くことはできない。沢彦(道三)も、顔が知られているので同様である。そのため盗み見られても秘密が露見しないようにした書面を用いてやりとりしているが、極めて効率が悪かった。
 外交では、近江の国とは良好な関係を保っていた。斎藤義龍が美濃を支配し始めた頃は、北近江の浅井久政が六角に服従しており、六角氏が近江の大部分を支配していた。その浅井氏の娘が義龍の正室であり、その子が龍興であった。この時、斎藤義龍は六角氏・浅井氏と同盟関係にあると言って良い。尾張とは胡蝶と繋がっており問題は無かった。武田の動向だけを見ていればよかったのである。
 だが、それも1560年の年初までの話。

斎藤義龍の置かれる状況:1560年の年初まで

  1560年は信長・胡蝶にとって桶狭間の年である。この年は斎藤義龍にとっても試練の年となる。なおこの頃には、幕府より一色氏の家督を認められ、斎藤義龍は一色義龍を名乗っている。
「胡蝶。義龍殿はどうだ?」
「随分、参っているようです。体調もあまり良くない様子」
 4月、斎藤義龍の子・菊千代が病死した。継室・一条の方は菊千代の死をひどく悲しみ寝込みがちになる。そして7月になると一条の方が亡くなってしまったのだった。信長と胡蝶が桶狭間の合戦に集中していた頃、斎藤義龍はひとりで家族の悲運に思い悩んでいたのであった。
「まさか、毒を盛られているなどという事はあるまいな」
「無いと思いますが・・・」
「近江との関係はどうだ。近江も大きく情勢が動いたが」
「六角についたと聞いています」
「だとすると、大変だな」
「はい」
 もともと美濃に接する北近江は、北近江守護・京極氏の支配下にあった。つまり、浅井久政を含む北近江の国人衆は、本来、京極氏の配下なのである。いろいろあって、浅井久政は守護・京極高広との関係をこじらせていた。そこへ、六角義賢が北近江を攻め、浅井久政は六角氏に下ったという経緯がある。
 1560年4月、浅井久政が六角氏に下ったのを不満に持つ国人衆と京極氏に心を寄せる国人衆が結託し、六角氏に対抗したのだ。まず、浅井久政の嫡男・長政(この時は賢政)が元服すると久政を隠居させ、長政に家督を譲らせた。そして、六角氏の配下から嫁いできた長政の正室を離縁し送り返したのだ。浅井長政は六角氏からの独立を宣言したのである。
 この時、斎藤義龍は代々続く守護の六角義賢側に付くことにした。六角氏の肩書と実績を優先したのだ。史実でも斎藤義龍は朝廷や幕府に働きかけて、より高い官位や一色姓を得ている。家格や肩書を重視する傾向があったように思われる。
 8月、野良田で六角軍と浅井軍が激突する。野良田の戦いは浅井軍の勝利で終わり、北近江は浅井氏の支配が確定する。これにより美濃に隣接する北近江・浅井氏と本格的に対立する事になったのだった。
 7月に病床にあった一条の方が亡くなって気落ちする斎藤義龍だが、近江の対応に忙殺され、全く休息をとる事が出来ていなかった。それを胡蝶は心配していた。
「浅井についていれば、楽だったのにな」
「まさか、守護の六角氏が負けるとは思っていなかったでしょう」
「わしも予想を裏切られた」
「信長様がそれを言いますか」
「まあな」
 二人は互いに苦笑いした。つい数ヶ月前、桶狭間で今川義元を討ったばかりである。桶狭間の結果を予想した者がいただろうか。
「2倍強の六角軍を相手に浅井長政は勝ったと聞きました」
「どこかで聞いたような話だな」
「ええ。違うのは、初陣で1万1千の兵が集まっている事ですね。誰かさんとは人望が違うようで」
「一度、コツを聞いてみたいものだ」
「全くです」
 再び二人は吹き出した。

 ひとしきり笑うと、再び美濃の話題に戻った。
「それで義龍殿はどうしようとしているのだ?」
「まずは、六角義賢との同盟を重視して行動されるようです」
「そうか、早く落ち着くと良いのだがな」
「ええ」
 胡蝶の表情がどうも晴れない。
「まだ何か気になる事でもあるのか?」
「斎藤家は代々法華宗でしたが、禅宗に宗旨替えするそうです」
「一色姓に合わせて、体裁を整えるつもりなのかな」
「そうかもしれませんが、妻子の死が相当にこたえているようで」
「そうか。それも理由か」
「ええ」
「それで菩提寺はどうする?」
「新たに建立するそうです」
「禅宗というと、開山は快川和尚か」
「それがですね・・・」
「どうした」
「警戒しているのです」
「何を?」
「武田です」

 戦国時代はまだ、天罰、神罰、仏罰が強く信じられていた時代である。
 そんな文化的背景があり、寺院は実質的治外法権であった。それを破れば仏罰が下ると広く信じられていた。その為、寺院に逃げ込めば犯罪者であっても逮捕されない。寺院はそのような場所、聖域であった。僧侶自身も治外法権の一部と見なされており、国から国に自由に移動ができた。
 真面目な僧侶もそれなりにいたが、一方で、その地位を利用して、書状の配達や、更に踏み込んで特定の大名の外交官のような働きをする僧侶もいた。この時代、寺院は単に信仰の場ではなく、国内の情報が集まる場所であり、各国の政治とも深く関わっていたのである。

「確かに、快川和尚は、天文二十二年から甲州に行っておったな。恐らく、武田信玄とも会っているだろう」
 言われてみれば、確かに信長にも心当たりがあった。平手政秀が亡くなった時、快川紹喜は濃尾地区に居なかったので覚えていた。甲州恵林寺に居たのである。泰秀宗韓も臨済宗だったが、平手政秀が亡くなる2年前に亡くなっていた。そのこともあり、平手政秀に縁のある沢彦和尚(道三)に政秀寺の開山をお願いしていたのであった。斎藤家の道三は法華宗なのに、沢彦としては臨済宗。実利主義でこだわりの無い所も道三らしさであった。
「それだけではありません。美濃の家臣に長井隼人という者がおります。父の代から居るのですが、この者が武田と繋がっているのです」
「それと快川和尚とどういう関係が?」
「最近、長井隼人が快川和尚の所に何度も足を運んでいるようなのです」「長井隼人・・・」
「はい」
「それで、快川和尚が武田と手を組んでいたら如何する?」
「それを懸念して、義龍様は別の方を手配しようとしているようです」
「別の方?」
「はい。美濃の寺は快川和尚を支持する者ばかりです。だから、京都妙心寺の亀年禅愉に相談していると聞いています」
 人が集まれば派閥が出来る。僧侶であっても同じである。この時、妙心寺には、龍泉・東海・雲雲・聖沢の四つの派閥があった。快川紹喜は美濃で主流の東海派、亀年禅愉は美濃では弱小の雲雲派であった。
「そうか」
「快川和尚は、スジを通す事にこだわる方ですから、揉めなければ良いのですが」
「だからこそ、京都妙心寺が上手くやってくれると期待したのだろう?」
「そうなのですが、・・・」
「わしは、快川和尚が武田の為に動いているかどうかの方が気になる」
 亀年禅愉は弟子の別伝宗亀を、斎藤義龍が新しく建立する伝灯寺の開山として派遣する。この別伝宗亀が雲雲派の勢力拡大を画策する事から、斎藤義龍と快川紹喜の間で宗教混乱を引き起こす。それが永禄別伝の乱である。

斎藤義龍の置かれる状況:1560年の4月以降

  そして、斎藤義龍にとって運命の1561年を迎える。
 妻子を失い傷心の斎藤義龍は、通常の内政をこなしながら、朝廷や妙心寺を巻き込んで快川紹喜とやり合い、更に外交では六角氏との約束を果たすため浅井長政に対して挑発活動(国境を越えて、刈安尾に築城)を続けていた。まさに激務である。
 1560年12月、斎藤義龍が菩提寺(伝灯寺)に関する触書を出す。これに快川紹喜が激怒して関係各所に働きかけるが、美濃は斎藤義龍の影響力が強く、また、快川紹喜を妬む竜谷派は快川紹喜に同調しなかった。そのため快川紹喜は斎藤義龍に触書を撤回させる事ができなかった。
 1561年2月、腹に据えかねた快川紹喜は美濃を出て、尾張・犬山の瑞泉寺に行ってしまう。それを見た美濃各地の僧侶の多くが快川紹喜を追って美濃を離れた。これが大きな内政問題となった。最終的に斎藤義龍は快川紹喜の除籍を求め、関係各所に働きかけるようになる。
 3月、斎藤義龍の求める快川紹喜の除籍は認められず、瑞龍寺の評定衆僧を連日呼び付けては、怒鳴りつけていた。一方で、斎藤義龍は六角氏との共同作戦を進めていた。刈安尾(滋賀県・伊吹山の麓)に砦を築き、これを拠点にして大原口まで兵を出し浅井長政を挑発する。これに浅井長政が応戦すると、その隙を見て六角氏が佐和山城を落とした。しかし、浅井長政はすぐに近江に戻り佐和山城を取り返してしまう。同盟相手の六角氏が不甲斐なく、近江に関しても手間ばかりかかっていた。
 4月、永禄別伝の乱もクライマックスを迎える。業を煮やした斎藤義龍は、朝廷や臨済宗本山妙心寺に説得工作を行うようになる。4月24日、斎藤義龍の説得工作により朝廷から綸旨りんじが出される。
 5月9日、臨済宗本山である妙心寺からも通知が出される。これには快川紹喜も肝を冷やした。慌てて京都の妙心寺に向かった。
 5月11日、斎藤義龍、突然の死去。死因は奇病とされる。

 斎藤義龍の死因は、もしかすると、快川紹喜を助けようとした武田方による暗殺かもしれない。ただ状況から考えれば、ストレスや過労が原因の何かではないかと推測される。妻子の死は、現代においても最上位クラスにランクされるストレス原因である。また、永禄別伝の乱でも、朝廷や京都妙心寺など高い権威者を巻き込んでおり、強いストレスになっていた事は容易に想像できる。そして、同時に浅井との戦である。この物語の斎藤義龍は胡蝶と繋がりを維持しているが、織田と対立していたなら更に難しい状況である。
 長い期間に渡り、激しいストレスと激務による過労が蓄積し、斎藤義龍の体を蝕んでいた。斎藤義龍が有能な人物であったとしても、体に変調があって何らおかしくはない。

 ワンマン経営の場合、社長本人に瑕疵が無くても、環境の変化がビジネスや社長を追い詰めるリスクがある。ある程度仕事量が増えてきたら、効率が落ちる事は前提として、人に仕事を割り振るようにしなければならない。優秀な社長ほど自分でやった方が早いと考える。実際、その案件だけを考えれば、その判断は間違っていない。部下が失敗すると仕事が増える事もある。しかし、それは教育(OJT:On the Job Training)と考えないといけない。部下の教育が組織力の厚みを与えるのである。
 その瞬間の案件だけを見れば非効率だが、長い目で見た時、逆になる。社長一人のアウトプットよりも組織のアウトプットの方が多くなるのである。しかも社長以外の他人の目が入る事で見落としが減り、不注意による失敗を防ぐ事ができるようになる。
 これは、創業者がプレーヤーから経営者へ脱皮する事でもある。脱皮には、それなりの苦痛が伴う。しかし、それが社長自身を守り、ビジネスを守る事に繋がるのである。

 斎藤義龍は、宿老への権限移譲を進めていたが、まだ途中であった。斎藤義龍の死は、ワンマン経営の弱点が露呈した結果でもあったのだ。

(次回、ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑭に続く)
(ビジネスメンター帰蝶の戦国記①に戻る)

参考:第4章

書籍類

 信長公記       太田牛一・著 中川太古・訳
 甲陽軍鑑       腰原哲朗・訳
 武功夜話・信長編    加来耕三・訳
 斎藤道三と義龍・龍興―戦国美濃の下克上  横山住雄・著
 武田信玄と快川紹喜           横山住雄・著
 天下人信長の基礎構造  鈴木正貴・二木宏・編 の3章 石川美咲・著
 近江浅井氏の研究   小和田哲夫・著

インターネット情報

Wikisouce: 美濃国諸旧記  編者)黒川真道
Wikisouce: 濃陽諸士伝記  編者)黒川真道

Wikipedia

https://note.com/a_isoiso/n/nf8b09ac65a10


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