見出し画像

なぜ、医療者は救急外来で「ダメ人間」を助ける必要があるのか? 〜悪人なほ往生す。いかにいはんや善人をや〜

「ダメ人間」?ほんと?

忙しい救急外来で働いている際、ふと考えた話。
沖縄県で働いていると、救急外来はまさに「戦場」といった様相を常に呈しており、患者さんの中には何度も同様の理由で受診する、いわゆる貧困層に属する方々が大勢いらっしゃった。

ある医師は、彼らを見て言った。「ああ、またダメ人間が来た」と。

ダメ人間。一見すると、確かに彼らは自分で自分のことをコントロールすることすらできない、「ダメ人間」にも見える。ただ、本当にそうだろうか。

仮に彼らがそうだとして、それは彼らの責任なのだろうか。助けてあげる必要はないのか。

〜悪人なほ往生す。いかにいはんや善人をや〜

20年以上前、西別院幼稚園という浄土真宗の幼稚園に通っていた。
ただの地元の幼稚園で、近くにあったから通っていただけであったが、隣には名古屋本願寺西別院があった。そこで週に1度ほど説法の時間が設けられており、何も知らない自分は「如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報すべし」なんて意味もわからず歌っていた。

そんな浄土真宗の重要な教えに、「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)」というものがある。


善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す。いかにいはんや善人をや」。
(善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人はいうまでもありません。ところが世間の人は普通、「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない」といいます。)
親鸞最大の逆説とも言われる。中学生のとき日本史でこの言葉にはじめて触れたが、あまり授業の内容は覚えていない。おそらく「悪人こそが救われるという教えで、仏の度量の広さを表した言葉です」なんてマッコトシヤカな説明を受けたことだろう。


実はここでいう「悪人」というのは、決して犯罪者のことではない。浄土真宗特有の表現で、何かしらの煩悩を持っている、悟りを開けない凡夫一般のことを表しているようだ。拡大解釈すれば、この世に悩まない人などいないので、人間全般のことを表しているとも言えそうだ。すると、この文章を書いている自分も、読んでいるあなたも、ローマ法王もダライ・ラマも天皇も、みんな悪人ということになる。


逆に善人というのは、仏の力など借りず、自分の力のみで幸せになろうとしている人のことを表している。


要するに、「仏は、他者に頼らず幸せをつかもうとする人たちですら救う。もちろん、自分で悟ることができない凡夫一般は、仏の哀れみによって当然救われる」と解釈できそうである。善人の方が悪人より偉いなんていうニュアンスは、一切ない。


医療とはこうあるべきだと思うのである。

救急ローテーションでは、1日にたくさんの患者を相手にする。その殆どが一期一会であるが、たくさんの愛すべきダメ人間のかたがた(失礼)や、医療知識が乏しい患者さまにたくさんお会いする。深夜に道端で寝ていて救急車で運ばれるヨッパライの皆さま。高血圧をほっといて左半身が動かなくなってはじめて己の愚かさを嘆く40代男性。

「先生!子供が風邪なので抗生物質をください!抗生物質がないと風邪は治らないので不安です!」と威圧的に訴える生活保護世帯の20代女性2児の母。

いやいや、風邪はほっとくのが一番治るし、インフルエンザには抗生物質は出せないぜ・・・

知らないのも当たり前である。なぜなら、自分は医療者だが、彼らは医療者ではないからだ。もちろん啓蒙活動は必要だが、それだけの話である。
しかしこれら「悪人」を救うのが、医療なのだとつくづく思う。

CTで肝臓が真っ黒(脂肪肝)になり異常に肥大してしまった20代男性。主訴上腹部痛、嘔気。酒を飲んだか問うても「3日前にビールしか飲んでいない」というが、姉にこっそり聞くと「部屋に昨日は無かった一升瓶が転がっていたさ、もうどうしようもないさ」と呆れ顔である。まごうことなきダメ人間である。そして過重労働で疲れきった医者は思うであろう、「ああ、またコイツか。こんな夜中に酒ばっかり飲みやがって。何度言ってもわからねーな、もう数年しか持たないんじゃないか。」

しかし、医療は彼こそ救うものであって欲しい。そうであり、そうあるべきであり、これからもそうあり続ける。

大事なのは、彼が酒を飲み続けることではなく、どうして彼が酒を飲んでしまうか、ということである。おそらく彼の家庭には何かしらの問題があるだろう。よく見ると、彼だけでなく彼の姉も、とうてい清潔とは言えない身なりであり、おそらく彼は経済的に貧困であるだろう。精神的にも、100%健康とはとうてい言えないだろう。それは一期一会の医療面接ではわかりっこないことも多いだろう。でも、こういう彼の話こそ、たとえどんなに忙しくてもしっかり聞くべきであり、リスペクトを持って「敬語で」接することが非常に重要である。決して迷惑そうに「また飲んだの?」なんてタメ口をきいてはならない。

繰り返すようだが、医療の手先である我々は、彼こそ救わねばならないのだから。

彼は別に飲みたくて飲んでいるわけではないし、病気になりたくてなっているわけではない。これだけは確かである。ではなぜ飲んでしまうのであろうか。

答えはやはり、貧困であろう。経済的な意味だけでなく、社会的、そして教育面、さまざまなアスペクトを以て「貧困」は彼の全身の血管を駆け巡り、その神経、筋肉、臓器を貪り続ける。そして貧困のスティグマは「遺伝」していく。

彼は酒を飲みたくて飲んだのではなく、貧困に「酒を飲む」以外の選択肢を奪われていた。要するに、貧困に酒を飲まされているのであろう。

本当の問題は、目の前にいる哀れなアル中患者ではなく、その背後にある貧困、そして社会システムである。本当の敵は、眼には映らないものだ。

彼らは自分で自分のことをコントロールすること「すら」できない、と冒頭に書いた。自分で自分のことをコントロールするというのは、本当に難しいことなのだ。彼らを「ダメ」だと判断するのは誰だろうか。彼ら自身が、自分をそう判断するのであれば、そうなのかもしれない。ただ、彼らは懸命に生きている。それは美しいことだ。

医療者である自分は、そんな哀れな彼の幸せを、心から願うのである。そして、そんな自分自身も、やはり「悪人」の中のひとりなのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?