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芭蕉の中世を追う

日常からふと消え去ることを夢見た漫画家つげ義春の『無能の人』に俳人井上井月を語る回がある。芭蕉の境地を越えんと生きて倒れるその背後の虚無に、学生時代の自分は共鳴した。のちに、神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』に感銘を得るのは必然だった。

今は世に拾う人なき落栗のくちはてよとや雨のふるらん

井上井月

俳人松尾芭蕉の代表作『おくのほそ道』を朗読で聞くと、旅路が綴られた散文が続くなか、句が読まれ、また散文が続き、句が添えられるという流れが美しくて、散文という現実のなかで、人は句という歌を挟めずにはいられないらしいと知る。

かつて断片的に読んだ本を含め、一本の道筋を追いたくなった。これは、そのようにして日本中世へ旅する読書の紀行文だ。

1185 中世(平安末期、鎌倉、南北朝と室町)
 ※ 中世近世どちらかに、戦国と安土桃山
1603 近世(江戸と幕末)
1868 明治以降


つげ義春の随筆

昭和、1955年頃から1987年の約30年間、貸本雑誌や『ガロ』『COMICばく』などに漫画を発表し続けたつげ義春は、随筆の評価も高く、それを改めて振り返るところからこの読書記は始まる。

「新版 貧困旅行記」

つげ義春は90年代の50代以降休筆したという認識だが、この紀行文は3,40代(70年代頃)の記録。稼ぐことと生という個人が、それ以外の全てが厳かな自然にて、巨視の視点無く漂うを望む眼がしみる。「蒸発旅日記」の素晴らしさは置いといて、ずっと浸り続けたくなるこの感覚を、Google Mapで即位置の分かる今どう成立できるのかを考えながら読む。しかし、それ以上に当時(自分は恩恵を受けている側だが)温泉ブームの俗化があり、つげが愛した鄙びた宿は減り続けていた。つげの旅を現代に抽出できないものかと。

『つげ義春の温泉』

2003年単行本時の再録漫画はカットされているが、文庫化2012年のものを読む。後記、社会離脱した存在なき存在を語っている。漫画の時期と比較すると、諸刃の代表作1968年「ねじ式」5年後の、写真は「リアリズムの宿」頃から、エッセイは「義男の青春」頃から、共に断筆間近80年代半ば「無能の人」頃まで。掲載されている写真を見て、才能があれば社会から脱するほど優雅なのでは?と感じる。『無能の人』と同等の名著。

『流れ雲旅』

つげ義春の文章「東北湯治湯場旅」で気づいたが、既読だった。それ以外の文:大崎紀夫、写真:北井一夫。水木しげるを思い起こさせるつげの絵を多数収録。つげは、貸本時代作家というアイデンティティを強く持っている。

『新版 つげ義春とぼく』

半分の頁を占める夢日記以外を再読。つげは絵の人だが〈絵+文〉の形式にも関心が高く、詩人の正津勉とのコラボ〈桃源行〉で語られる思いも含め、制作断片の作品化へのこだわりはバルト的ディスクールと構造レベルで近い。つげにバルトとは、という話だが、ロラン・バルト『偶景』などを参照すると、必ずしも遠いわけではない。

宮本常一『日本の宿』

つげ義春が引用した日本初の宿史。旧版は現代教養文庫1965年。奈良時代以前は旅は餓死問題だった、熊野参拝、一遍などを経て、室町頃の伊勢神宮の商売性、江戸の人質政治と女の取締まり、宿場競争の決め手は遊女、罪人の宿、寄宿舎の原型、湯の宿、旅。図版多数。ドヤ街の記述もあり、それについて〈長い人生の中で次々におこって来る不幸をはらいのけることができず、しだいに生きる積極性を失ったものが、転落して来るもの、田舎で貧しい生活を追われて〉と述べられ、確かにそうだが、元も子もねぇ説明だなと思う。気になる参考文献、入手困難そうなものに『諸國定宿帳』『復軒旅日記』『無宿人 佐渡金山秘史』。他方『中山高陽紀行集』は購入。

八隅蘆菴『旅行用心集』現代訳

『日本の宿』で知って購入。女性の遠出が現れ始めた江戸末期は文化7年(1810年)に刊行。後半は諸国の温泉292ヶ所と資料。図版多数。落馬の手当て、よい薬など実用的だが〈狐や狸のしわざで、ふと道に迷うとか〉そんな記述も。旅先で歌を詠むこと。解説は、旅学の桜井正信。

たび=たどる日。

『徹底図解 東海道五十三次』

江戸後期の旅ブーム(といっても通常は江の島程度まで)の火付け役は十返舎一九による弥次喜多珍道中の『東海道中膝栗毛』もなぞりつつ、歌川広重の絵で全道中を見開きで捉えた本。女性の関所回避ルートの姫街道と四次ある京都大阪間に興味が湧く。書物を通じ、京都や商人街大阪を江戸から夢想する庶民は楽しそうだ。新星出版社。

林美一『艶本紀行 東海道五十三次』

相当以前にだらだら読もうと70ページほど読み進めていたが、読書のお供がいると思い、上の『徹底図解』を参照しつつ冒頭から読み直す。復刊『全國遊郭案内』と『全国女性街ガイド』も参照する。

この文庫版1986の定本は『東海道売色考』1979で、それは『東海道艶本考』1962を加筆改訂したとのこと。1962-79年の間に新幹線が岡山まで延び、1979-86年の間に日本はがらっと変わったと述べられている。

静岡県が起伏に富んだ旅路とは予想外で愉しいが、それにしても長い。五十三次の半分以上が静岡か。すでに跡形もないなら聖地巡礼もおまけ程度、映像もないなら読むしかアクセスできない。そういうものに興味がある。500kmの旅路は、鴨川の三条大橋を越えて山城国は京都府、京に着く。逆ルートでの紀行が読みたい。

多く引用される、『東海道中膝栗毛』に便乗した艶本『閨中膝磨毛』で、九次郎とともに飯盛を求め長い旅をする、舌八が詠んだ一句

人はみな垢離をとりぬる河原にてわれははかなく銭をとらるゝ

旅路に句を読む素晴らしさにこの本で再確認する。

松尾芭蕉『おくのほそ道』

江戸の俳諧師の代表作の全文朗読 by 左大臣光永。脱紀行文。150日が濃縮されて織り込まれた結晶。旅の付き添いに河合曾良がいる。パートナーのいる旅は少しYouTuberのようだが、芭蕉が旅に出る理由は、行脚(僧が諸国を巡り歩く修行)をなぞっている面もある。上野洋三/ 櫻井武次郎 校注『芭蕉直筆 奥の細道』岩波文庫化も購入。

旅に病で夢は枯野をかけ廻る

松尾芭蕉

芭蕉最期の俳諧。旅の途中で病気になり倒れてしまったけれども、夢はどこかの枯野を、まだかけ廻っている。

夏見知章『芭蕉 月の遊行』

江戸の隠遁文芸、雅びならぬ鄙び、雪月花、和らぐ道と風雅、笠に紙子に紙草履、そこに貫く遊行を知ろうと手に取るが、おくのほそ道の分析を経て、連句-俳諧-の世界(構造)へようこそ、という読後感。構成図と詠句を併せた地図も良い。旅先の古書店で購入。芭蕉の〈古池や蛙飛びこむ水の音〉は、発句というだけあって俳句のエクリチュールを持つ。座敷でどんちゃん騒ぎがあろうと、この一文で次元を一瞬切り取ってしまう力を感じる。

板坂耀子『江戸の紀行文: 泰平の世の旅人たち』

2011年刊行。これまで中世的完成の松尾芭蕉、膝栗毛など俗文紀行への注目に終始していた2500点以上ある近世紀行文を、正確で実用重視の貝原益軒、奇談集の橘南谿、女性視点の土屋斐子、江戸の紀行を完成させた小津久足らの現代語訳の引用織り交ぜつつ紹介する名著。この著者の文が肌に合うので『江戸温泉紀行』を古書購入したが、こちらはアンソロジーだった(江戸の、大根土成、本居太平、原正興、一方軒玄英、坂本栄昌、による紀行)。むしろ中世に関心を抱く。

芭蕉が中世文学の完成なら、中世(鎌倉/室町)を掘る方向に。また、道が古代駅路(畿内七道)→鎌倉→江戸期街道→という流れで、江戸直前に信長が民衆公益の道路建設を掲げる前、鎌倉期に民営宿が現れ、その当時の旅日記にうら寂しい光景が描写されたという。

末法後と道路維持能力を失った室町を見たい。

武部健一『道路の日本史』

道路という語は中国から来、芭蕉も論語を踏まえ〈捨身無常の観念、道路に死なん〉と詠んだ。幅を持つ地上の長い繋がり。移動/輸送/情報連絡(ネットワーク)。高速道路が古代駅路とほぼ同じルートになる必然の発見から、建設省や道路公団キャリアのある著者が紐解く名著。

紀貫之『土佐日記』

仮名による初の日記、平安の、胸を傷めた紀行。口語訳で読む。土佐から京へ天候で幾度も停泊を余儀なくされる舟での帰り、老若男女和歌を詠む。〈詩歌を作るのは..思いをおさえきれない時にすることとか〉短くすぐ読める。みごとな貝や石などがたくさんある等、詳しく説明しない省略性が良い。

国守の人の作、

都いでて君に逢はんと来しものを
来しかひもなく別れぬるかな

都を出発してあなたに逢おうと思って来たのに、来たかいもなく、もうお別れしてしまうのですね。

何でもない、学び伝達もない、独自視点さえ無い、しかしどうにもできない感情を、ただ詠む世界、素敵すぎると思う。芭蕉を遡ると当然和歌に来るが、奈良時代の古事記/日本書記で既に物語効果を狙い散文に詩を挿入しているのなら(ソースはWikipedia)芭蕉の構造まで連なるなと。

藤井貞和『「うた」の起源考』

サンプルを読む。起源の考察が〈懸け詞(掛詞)〉から始まるのが興味深い。『万葉集』から、借香と春日を掛けた歌。〈吾妹児に衣借香の宜寸川 因も有らぬか妹が目を見む〉多次元性。

桜井哲夫『一遍と時衆の謎』

踊り念仏で有名な一遍の遊行に沿って、歌舞伎などの芸能のルーツでもある時宗を語る本。〈おのづから あひあうときも わかれても ひとりはおなじ ひとりなりけり〉差別を生む穢れという概念への批判、自身による書さえ捨てる究極的態度など。〈一遍は、鎌倉入りにあたって、ここで念仏勧進の道が絶えるようならば、これで最後と思わなければならないという覚悟を述べた(…)それは、臨済宗の栄西、法然の弟子隆寛、曹洞禅の道元、浄土宗の良忠、真言律宗の忍性、日蓮宗の祖・日蓮などが鎌倉に来て布教活動をしていたからだろう〉勢揃いか。凄まじすぎる。

白洲正子/権藤芳一『世阿弥を歩く』

観阿弥、世阿弥も室町か。写真が多いのが魅力。簡潔に纏められたテキスト4編。作品解説が面白い。地獄の鬼も複式夢幻能の構成で幽玄なものへ。その美意識。世阿弥の晩年小謡集「金島書」の句が素敵すぎる。

下の弓張りの月もはや 曙の波に松見えて 早くぞここに岸影の ここはと問へば佐渡の海 大田の浦に着きにけり

世阿弥「金島書」

武田鏡村『虚無僧 聖と俗の異形者たち』

鎌倉を経た室町をルーツ。乞食と半グレの狭間的武闘派仮住まい暮露、薦僧、虚無僧と、中国普化思想から禅へ、一休宗純や無本覚心が複雑に入組む、著者曰く〈清山や蘭斎をはじめ多くの虚無僧を虚空から呼び起こしてしまった〉絶版なのが不思議な名著。時代特有のアジールが見えてくる。

『完本 万川集海』

伊賀流忍者博物館に出向いた際、少し忍者を身近に思えたため、棚で眠っていた本書のはじめにを読む。これともう一冊名著があり、禅を取り入れたその紀州流忍術『正忍記』について説明される。忍者は、密偵/間謀に窃盗が仕事で、ディープすぎる所が魅力。

清水克行『室町社会の騒擾と秩序 [増補版]』

文化方面では室町といえば東山文化だが、それがどのような社会背景上にあるのかを理解したくて手に取る。その雅やかではない側面(罪人への自害推奨や財産掠奪また住居焼却、流罪と殺害、耳鼻削ぎの刑)などへの硬派な分析記述が続くなか、果たしてアジールはどこに?と思いつつ読む進めると、戦国時代、どことも縁なき民衆が禁裏(天皇の居所)へ戦禍逃れる避難所の話が語られ、そういうアジールもあるかと思う。

(おわりに)

〈記〉という界さえ幻視した。

つげ義春も松尾芭蕉も、漂泊する。そこでは歌がより強く響いた。

2018年、単純な旅行とは違う観点で各所を歩くようになり、ちょっとした疑問が浮かんだ。例えば、小さな古墳跡に行っても、いまいち感じ入るものがない。実際に対象の場所へ出向いてそこの空気に触れることを大事にする現場主義だが、それを原理主義化する道理もない。本を通してしか知り得ない、今現在に残されていないものが、数多の専門家たちの成果を渡ることによって〈場面〉が浮かび上がってくるという体験は、旅の原理と似ているのではないか。事前情報を収集せず、出向いた場所の観光案内で拾うフリーペーパーや、さりげない説明書きなどを、リアルタイムに集合させることで多角的に今いるところを脳裏に出現させたあと、カフェや宿泊場所で、頭に浮かび上がった〈場面〉を考察し、次の収集における作戦を練ることは、さて次にどの本を読むか、と考えることに似ている。

出向いた先のことをつらつらとまとめる探訪記もいいが、もっとコンパクトに出向いた先のことを文として集約できないかと思い始めた。

そこから、松尾芭蕉に再びリンクした。

涼しさや ほの三か月の 羽黒山

松尾芭蕉「おくのほそ道」

たったこれだけでも、羽黒山へ出向いたことを表現できる。

短尺の時代が懸念されている近年だが、文字の民主化が長文を日常化させていただけで、長い人類史的には、記憶できる程度のものの方がスタンダードだったかもしれない、そう想像することもできる。

上に記した本のうち、板坂耀子『江戸の紀行文: 泰平の世の旅人たち』と武部健一『道路の日本史』はKindleで読んでいる。電子書籍Kindleでは、情報が得られるだけなので、本を読み終えたときの満足度が想像以上に低かった。情報としては、Kindleでも本でも得られる満足度は同じだが、本の場合、さらに二、三、別の満足が追加で得られる。満足の数が、1ではなく、3以上ある。所有したいものは、できるだけ本で選ぼうと思った。

少し脱線した。

旅と読書、とは別の、旅のような読書。

一つの題材を提供するために、総合的に本をピックアップし並べていくのとは違う仕組みの、読書記についても考えていた。

探究心あれど、あてなき読書。

隠遁文芸のふるさと、中世。まだ辿り着いたばかりだ。

_underline, 2023.2



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