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「怒り」に包まれたものは


あけましておめでとうございます。今年も頭を整理する場所としてふらっと訪れて言葉を綴りたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

新年の挨拶をしましたが、内容は全く世間の迎春とは関係ない(個人的にはある意味「迎春」と言えるかもしれませんが)、精神的にタフになったというお話です。

最近の私は、2月初めにある、大学生活の集大成となる卒業演奏会に向けて専らピアノを弾いて弾いて弾き続けています。夢の中でBGMのように取り組んでいる曲が流れた日にはさすがに目覚めが悪かったです。

本番まであとひと月、先生も2週間に1度のレッスンに熱が入ります。この半年くらいほとんど怒られることはなかったのですが、ここ最近のレッスンは半ば呆れるようなお説教を頂くことも多いです。

以前の私は、先生から自分の音楽に対する向き合い方に対してのご指摘を受けた時、「ああ、なんで自分はこんなに出来ないんだろう…」「がんばってるのに結果が出ないのはどうしてなの…」とひたすらに自分を責めていました。

しかし最近は「まだ自分はこの音楽を楽しみきれていないのか」「もっと楽しく弾くためにはどうしたら良いのだろう」とポジティブに思考することができるようになりました。

というのも、人の怒りの裏側には「心の傷」、そしてさらにその裏側には「相手への期待」が潜んでいることを知ったからです。

わかりやすい例を挙げると、ものすごく信頼している相手と数年ぶりに会う約束をしていたのにも関わらず、相手が連絡もなしに3時間遅刻してきたとします。そのくらい遅刻のうちに入らないよ〜と言える心の広い人、または同じくらいの遅刻癖のある人以外は、少なからずイライラするでしょう。

しかし、この「イライラ」は紐解いていくと、「相手に会うことを楽しみにしていた」「相手も同じように楽しみにしてくれていると思っていた」という"相手への期待"が裏切られたことによる"心の傷"から生まれた産物だと言えます。(ここでは巷でよく言われる「他人に期待するな」が言いたい訳ではありません。むしろ遅刻はする方が悪いです。)

そしてこの相手が4時間たっても連絡をしてこなかった場合、きっと相手に"絶望"して家路に着くことになるのです。

つまり、人が怒るときの感情の流れは「相手への期待」→「裏切られたことで生まれる傷」→「怒り」→「相手への絶望」となるわけです。


ここで話を私が先生に怒られた時のことに戻します。このことを理解した私は、先生に怒られても「ああ、私はこの人を傷つけてしまったのだな」と考えることができるようになり、また「傷を負うリスクがあるにも関わらず、期待してくれていることに感謝しよう」「絶望される前に期待に応えたいな」と思い、より一層音楽に身を投じることができるようになったのです。


またこのような経験から、ちょろっと先述した処世術としての「他人に期待しない」生き方に対して、私は100%肯定することはできないなと考えるようになりました。

もちろん期待することには自分が傷を負うリスクを伴うし、そもそも「相手への期待」は自分の中の「こうあってほしい」という理想の押しつけになるので、良いことばかりではありません。

しかし、自分が信じた人に対して「この人ならできるはずだ」と思うことは、相手の受け取り方次第では物凄いパワーになる可能性を秘めた行為だと思うのです。自分で自分に期待できなくなってしまっても、他人からの期待があるから脚を動かすことが出来ることも時にはあると思うのです。

話は逸れましたが、私はこのように他人の怒りの裏側を想像することで、その怒りを自分の力にする方法を身につけました。もちろん、パワハラやモラハラだと認識できる場合は、そんなものとは向き合わずに逃げましょう。

専ら私自身は自分の心の傷を怒りに包んでぶつけることで相手の心を傷つけることは望まないので、自分が傷ついた時はその傷を何にも包まずそのまま見せられるような、相手を信じるつよさを身につけたいものです。

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