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自分を赦すことと他人を信じること

こんにちは。かなりご無沙汰になりました。
なかなか文章をゆっくり書く時間が取れないほど、ある意味充実した日々を送っています。が、自分のことをすきになるため、すきでいるために言葉にしておきたい考えがあったので、文章に起こすことにしました。

先日、恋人とお出かけしたときのことです。
彼は普段ほとんど運転はしないのですが、私と出かける時は運転係をしてくれます(本当にありがたい)。
普段し慣れないことをするには不安が付きまとうもの。
私もできる限りサポートするよう心がけてナビ係をしますが、私自身運転するわけではないので気づかないことやわからないことも当然ながらあります。

駐車場の標識が分かりづらく、駐車に苦戦してしまいました。
その後彼が
「もっと分かりやすくしてくれればいいのに…」
と怒り気味で言った後、今度は
「こういう普通の人ならわかること、わからないことが多くてさ、これが仕事だったらとか思うと本当に嫌になる…」
と自分を責め始め
「なんかごめん…」
ととても深刻な顔で私に謝ってくれました(?)

ん??いやいや、私怒ってないし!
てか、そんなことで怒ったり呆れたりするほど器小さいと思われてることの方がショックやわ!😂

という感じなのですが、多かれ少なかれ自分にもこういった経験はあったなぁと思い出しました。


自分は普通の人が出来ることができないダメなやつだと自分を罰し、誰もこんな自分のこと認めてくれないと思い込み、本当は出来たかもしれないことに挑戦することも躊躇してしまう。

でも本当はたまたまその時出来なかっただけで、次は出来るかもしれないし、たまたまその事が出来なかっただけで、別の何かは出来るかもしれない。
自分はダメだと自分を罰することで、その可能性を潰していくのは、せっかくあるはずの光を閉ざしていくことになってしまうかもしれない。

できない、ダメな自分を罰するのでなくて、ただ赦すだけでいいなとその時思いました。
「ああ、これが苦手なんだ」と認めるだけ、ただそこにある事象として観察する感じ。
もう少し余裕があれば「どうして苦手なのか」(大体過去にヒントがあったりする)とか「どうやったら克服できるのか」(得意な人に聞いてみる)とかが考えられればいいけど、そこまで余裕がなければ「苦手なのによくがんばりました💮」でいいと思うんです。


そしてこういう風に考えることが出来れば、同時に他人を信じることができるようになると思います。
人は「自分の普通」を「相手の普通」と思い込みがちです。
だから「こんな自分赦されない」と思っている時、他人も「こんな自分許してくれない」と思い込んでしまう。

でも本当にそうでしょうか?
例えば今回の私みたいに信じてもらえなかった方も、ちょっと寂しかったりします。


自分の理想が高いほど、自分に厳しくある人ほど自分のことを罰してしまいがちですが、それによって傷つくのは自分だけではなく、周りの人も独りにしてしまうかもしれません。

逆に「自分はこれが苦手だ」と発信してそれを受け入れてもらえたときには、素直に相手に感謝の気持ちが芽生え、感謝された相手もいい気分になる気がします。


「自分はダメだ」と自分自身を罰して傷つけることよりも、「これが苦手なんだ」と認めて赦して、そこからその事象に向き合っていくことのほうが、自分の心も自分の周りの人の心もヘルシーでいられるなぁと思った出来事でした❤️‍🩹


…うーん、まずは私が運転できるように練習しよう😂



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