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「harmony/」に見るディストピア

伊藤計劃さんの「harmony/」というSF小説をご存知だろうか。

彼は「虐殺器官」でSF小説界にセンセーショナルにデビューし、そのわずか2年後に32歳という若さで亡くなった。
才子短命という言葉が似合ってしまう程に、刹那の作家人生の中で発表した作品はどれも心にずっしりと響くものばかりだ。

harmony/は、虐殺器官と世界線を共有する、私の大好きな物語だ。

harmony、すなわち調和。

この本の内容はこうだ。

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人の世はどうしたって争いに溢れていて、それは他より己を最優先する利己的私欲によるものだ。
個人の体験や感情を優先するあまり、人は無数の「不合理」を繰り返す。
不合理が争いの種になる。
調和のとれた状態が永遠に続けば、何事もなく穏やかに生きていけるのに。

実は私たちの脳の中でも同じことが起きている。
瞬間瞬間の人の意思は単一ではなく、個々の意思が争っている。
その中で勝ったひとつの意思が、唯一私たちの意識にのぼり、行動するのだ。
人が不合理を繰り返すように、不合理が勝ち残ることは非常に多いものだ。
(いつも自分の行動に100%の自信がある人がどれほどいるだろうか。)
もし意思がいつも調和していたら、どれほど穏やかに生きていけるのだろうか。

harmony/は、愚かな人類の「ハーモナイズ」前夜に生きた少女たちと、その後の世界を描いている。

ハーモナイズ後の人類は、刺激に対して完璧に合理的な応答を返す、「愚かでは無い」生き物になった。
感情と引き換えに。
意思が争わなくなり、負ける意思も勝つ意思もなくなったからだ。
勝ち残った意思が意識にのぼっていたのに、勝者がいなくなったから、人はそれを認識することができなくなった。
調和した意思は直接身体を動かし、人はぼんやりとした恍惚の中で何も感じず争わず生きるのだ。
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この物語をあなたはどう思うだろうか?

私は初めてこの小説を読み終わったとき、ディストピアだと感じた。

争いもなくいじめもなく、絶望で自ら命を絶つことも無い世界。
何故ディストピアなのか?

感情がない、楽しいということも感じられない。
愛も、感動もない。
そんな世界が退屈そうだから?

たしかにそれもある。
ただ、ハーモナイズ後の世界には特殊な娯楽がある。
ハーモナイズ前の人間の脳波の形状をそっくりコピーして自分に反映させ、「感情」を楽しむことが出来るのだ。

それなら感情があるし、いいのでは?

harmony/がディストピアなのは、人間がその存在意義を自ら放棄した世界だからだ。

知り合いの高校生のひと夏の吹奏楽が、精巧に打ち込まれたシンセサイザーより「特別」なのはなぜ?
音楽は心で奏でるものだと言われるが、結局音は空気の振動の波の形状であり、感動的な抑揚を機械が完璧に真似することはいとも簡単に可能だろう。

それでも、その2つの音楽のどちらがより「大事」かと問われれば、あの子の若さと汗と涙のこもったスクールバンドを選ぶ人が多いのではないか。

人間の手で奏でられた音楽は、2回とおなじ物にはならないから?
製造業では何千、何万と1寸違わない物を作り出す方が優れている。

ではなぜ知った子のいるスクールバンドは「特別」で「大事」なのか?

「人」に心を動かされ、「特別」で「大事」だと「感じる」、それが私たち人間の特徴だからだ。
なぜコンパスは四角でも三角でもなく円を描くのかと聞かれたら、円を描く道具がコンパスだからだと答えるようなものだ。

この人間至上主義(ヒューマニズム)が野生動物から私たちを隔て、ここまで繁栄させてきた。
ヒューマニズムをやめた人間は人間ではなく、その時点で肉体を残して私たちは絶滅するのだ。
それがディストピアでなくて何なのだろう。


【関連文献紹介】
・利己的な戦争のディストピアを描いた作品が「虐殺器官」です。
伊藤計劃さんの遺作の「屍者の帝国」と「harmony/」を含む三部作としてアニメ映画化もされているのでぜひ観てみてください!

・ヒューマニズムが人間の進化の理由であるという見解は、「サピエンス全史」でお馴染みのユヴァル・ノア-ハラリ氏の「ホモ・デウス」にお借りしました。
SF小説ではないですが、非常に面白いのでおすすめさせてください。


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